『マッカランソーダの夜』

珈々らいす作品

はじめに

 実は、忙しさにかまけていて群像新人賞以後これという小説を書けていませんでした。そこで先日、思い立って時間用意し、一息にこの作品を書いてみました。

その後数日毎日作品を読んで細かい推敲を繰り返し、アップに至っています。

感傷的な心を大切に、詩のような小説のような作品に仕上げることを意識しています。(というより、自然とそういったかたちになったように思います)

なお、今回この作品は、4266字と少なめの短編小説になっています。(通常短編小説の定義が400字詰め原稿用紙10〜80枚程度であると考えると少なめ)

短いので、隙間時間等に読んでみていただけたらと思います。ご意見・ご感想等ありましたらぜひTwitterのコメント欄等にお願いします!

※ここでは横書きで載せますが、縦書きで読みたい方のためにPDF版もこちらに載せさせていただきます↓↓

『マッカランソーダの夜』

  マッカランソーダの夜 

 彼の右肩が小刻みに揺れている。その揺れ方は水飲み鳥のそれとも違うし、また新幹線で飲む紙コップの水の揺れとも違った。もっと機械的で、どちらかというと少し速度を落としたミシンのような、そういう揺れ方だった。私はマッカランのソーダを飲みながらそれを眺め、彼がこちらを振り向くのを待ったが、彼があまりにも真剣だったので、諦めてグラスの氷をカラカラと鳴らしていた。それは私が手持ち無沙汰になることがないように彼が渡してくれたマッカランソーダだったので、私はあまり思い切りよく飲むことができなかったのだ。それゆえ変に焦らされたような気持ちにもなった。それは猫が手で掬って水を飲むのと同じような不調和であり、肌に養生テープを貼るように奇妙な感覚でもあった。私は右斜め前の彼の背中を見て思わず小さく口角を上げた。昔読んだ本に、「ウィスキーというのは最初はじっと眺めるべきものなのだ」と書いてあったのを思い出したのだ。じゃあハイボールはどうなのだろう。このマッカランソーダは少し濃いめだから、オンザロックではないにしろ眺める価値はあるのかもしれない。そのように考えを巡らせていたら少し可笑しく思えてきたのだ。彼は自分が作ったマッカランソーダが私にそんな考えを起こさせているということなどには微塵も気づかず、今も右肩を小刻みに揺らし続けている。それは私の中にシニカルな感情を起こさせるには十分なファクターだった。そして私がそんなことを考えている間も、彼は一度も私の方を振り返らなかった。

「君は茄子は食べられるわけ?」

 私がマッカランソーダを眺めるのをやめてグラスに口をつけた途端、彼はそう前を向いたまま呟いた。

「茄子は食べられるよ」

「そう……」

 彼は右肩を揺らすのをやめて、まな板の上の茄子をボウルに入れてそこに水を張った。何をしているのかはよくわからなかったが何も聞かずにそっとしておくことにした。

「そのハイボール濃さは大丈夫?」

「大丈夫」

 そう言うとしばらく沈黙が続き、彼は再び右肩を揺らし始めた。私は壁に頭を預けて彼を見ていた。真っ黒な髪の毛には取れかけのパーマがかかり、襟足はだらしなくあちこちの方向に枝垂れている。羽織ったオーバーサイズのカーディガンはサファイアの原石のような妙な色味で、床についた黒いフレアパンツはすでに諦められた人生に付き従うような無力感を放っていた。

私は彼に何か話しかけようか迷ったが、不思議なことに何一つとして問いかけ文句が思い浮かばなかった。私は諦めてマッカランソーダを勢いよく流し込み、頭が何かによって圧迫を受けるような感覚に陥るのを待った。一、二、三とカウントが進むにつれて、脳がささやかに変形していくように思える。それを感じたら何か言うべきことが思いつくのではないかと思ったが、何一つとして思いつきはしなかった。私は諦めて自分の着ていたニットの網目をなぞって遊んでいた。

「君はさ、」

 彼は突然口を開いた。部屋にはガーリックとオリーブオイルの鮮やかな香りが広がりつつあった。そして私の手元ではマッカランソーダの香りがオルゴールの上のバレリーナみたいにくるくると踊っていた。

「うん?」

「どんな学生時代を過ごした?」

「想像がつかないくらい真面目だったわよ」

 彼はまな板に向かって話しかけ、私はグラスに向かって質問に答えた。そのようにして彼と言葉を交わした瞬間、リビングルームにボサノバが流れていたことに気がついた。ボサノバの音は、彼の耳にも入っていないような気がした。

「親が厳しかったの?」

「厳しかったかな。毎日習い事に行ってたの、塾とかスイミングとかピアノとか。一人娘だったし」

「かわいい顔をしてたし?」

 彼はそう言いながら切った具材を全てフライパンに入れた。その時少し斜めを向いた彼の横顔には薄笑いの影がぴたりと張り付いていた。

「ちょっと君の横にあるトマト缶を取ってくれる?」

 彼はフライパンに向かってそう言った。私は何も言わずトマト缶を取って彼の脇に置いた。彼の首筋からはため息の出るようなソヴァージュの香りがする。私は思わず彼の背中に少しだけ体重を預けた。彼も少し頭を後ろに倒してみせた。線の細い髪が私の額にかかる。私は自分の喉の奥の辺りが少しだけ熱を持つのがわかった。

「何かすることはある?」

「じゃあそこでハイボールを飲みながら僕と話をしてくれる?」

 彼はそこではじめてまっすぐに私の目を見た。私は小さく頷き、グラスを持って元の位置に戻った。

「実はね僕も一人っ子なんだよ、親は別に厳しくなかったけど」

「知ってる?一人っ子と一人っ子は相性最悪なの」

「似たもの同士だからかな」

 彼は一瞬、左うしろでグラスを持って膝を抱えた私を見た。そして少し笑ってフライパンに目を戻した。

「僕は君を理解できるし、君は僕を理解できる」

「ありきたりだけど、そういうことかも」

 私がそう言うと彼は少し上を向いて笑った。

「君はかわいいところがある」

 私はグラスの残りを全部飲んだ。ウィスキーを感じる。体の熱を感じる。それはどこか初めての告白で校舎の裏に向かうときの鼓動に似ていて、しかし漢字テストで隣に座ったメガネとワイシャツの男の子の答えを盗み見るようなそういう毒々しい感覚にも似ていた。私は彼の腰に体を添わせたい衝動に駆られた。思い出したのは暑い夏の日、クレーコートに落ちるいつかの汗と白いボール。あと一押しで届くベースライン。届かずミドルラインの後ろに落ちて、ネットの向こうにいるライバルの女の子がそのボールを巧みに返してみせる。そのボールは前衛の脇を通ってストレートに落ち、私は反対側から走って手を伸ばすもそのボールを取り逃がしてしまう。跳ねる砂。頭のすぐ上で皮膚を貫く太陽の光。そして届きそうで届かないボール。今私は両手でグラスを持ったまま、彼の背中には手を伸ばせない。届きそうで届かないのだ。

「ねえおかわり飲んでいい?」

「どうぞ。でも大丈夫?君そんなに強くないから」

「大丈夫」

 そう言いながら彼の横に回ったけれど、結局なんでもなさそうに氷をグラスに入れることしかできなかった。自分で自分のハイボールを作るというのはどうにも変な気分だ。それは少しだけ、誰かの下着を干す時のような、本来あるべき状況と反した状況の中である行為をする、そういう感覚に似ていた。あってはいけないものがあって、なくてはならないものが欠如しているのだ。

「ねえ、いる?あなたも」

 なぜだか私の呼吸は少しだけ浅くなっていた。歳を重ねて、気持ちよく生きていけるくらいには色々なことへの執着が取り払えつつあるように思えてきた気がしていたのに、やはり本質的にはそうでないような気がした。ひとこと言ってしまったら、なんだか自分がひどく惨めに思えた。

「うん」

「この間みたいに、オンザロック?」

「いや、今日は君と同じやつ」

「濃いめにしようか」

「ううん、同じくらいにして」

 彼はなんでもなさそうにそう言った。私は何も答えずにグラスを取って氷を入れた。何か言ってしまったら、顔の緊張が解けてしまう気がした。そしてそれを説明できる自信は私にはなかった。ただなんでもなさそうに笑いかけたいだけだったのだ。絶対に振り返らないのは私でなくてはいけなかった。泣きたいのは私ではないから、泣けないのだ。

「どうぞ」

 私はキッチンの隅に少し薄いマッカランソーダを置いた。

「ありがとう」

 彼は私の目を見て笑った。私も彼の目を見て笑った。彼は眩しい光を見るように少し目を細めてまた前を向き直った。広がるようにお湯に入れられた麺の煙が宙に舞う。お湯の中をかき混ぜる彼の左腕の筋が好きだと思った。

「ねえ、恋人はいつからいないの?」

 私の頭を侵略し始めたウィスキーが含み笑いをしている気がするけれど、私は体育座りで手の中のグラスに向かってそう問いかけてみた。

「いつだろう、半年くらい」

「寂しい?」

「最近は、そうでも」

「そっか」

 私は少しだけボサノバの音を聞いた。向こうを向いた彼の襟足を見た。今このときだけでもその完全性と信じることができたら、それで十分である気もした。どうせいつか老いがやってくるし、明日ハルマゲドンが起こるかもしれない。私はグラスの中身を二口飲んだ。

「これさ、美味しいね」

 彼は私の作ったハイボールを一口飲んでそう言った。

「うん」

「刺激的なものに慣れすぎてたんだな」

 彼はすっと息を吸い込み、ふうと音を立てて吐いた。彼は何かを憂いているようにも見えたし、全く何も考えていないようにも見えた。彼はパスタをお湯の中で動かしながら鍋の中に塩を振った。

「君は最近さ、」

 彼はそう言いかけた。そこにはわざと間が設けられていた。

「わからない」

「そう」

「まだこんなくらいしか生きてないのにね」

「うん?」

「いろんなことがあるし、でもそこから何も学んでないの」

 グラスに口をつける。喉が少し焼けていくような気がする。

「それって怖いことじゃない?」

「わかるような気がする」

 彼はそう言いながら鍋の中のパスタを一本食べた。そうしてコンロの火を消した。ガスの音が消えて、換気扇の音が残った。嬉しくも、残ってくれていた。

「ごめんね」

「もういいから」

 彼は少し眉を下げて小さく笑ってくれた。そして左手にグラスを持って私の目の前にしゃがんだ。私は両手で持っていたグラスを左脇に置いて、彼の前で俯いた。彼は私の後ろ髪を優しく触った。そして少し切なそうに目の力を弱めて見つめてみせた。

「これ飲んで?」

 彼は私に彼のグラスを渡した。そして私の左脇のグラスを取り上げた。

「僕がこっちを飲むから、君はそっち」

 私は仕方なく頷いた。私は彼の長い襟足を触った。

「そろそろ切りなよ」

 そう言って笑うと、彼も笑った。その表情は笑顔というにはいささか弱々しく、それでいて人生を何周も回って獲得したような諦観の念も持ち合わせていた。そして私がその目に見たのは紛れもない無欲であり、また純粋さであった。

「でも好きなの」

「知ってるよ」

 立ち上がってパスタを分ける彼の背中を見て、結局はいつか死ぬ、と思った。そうしたらなぜだか、まだ名前のない鍋の中のパスタも、彼の襟足も、部屋に流れるボサノバも、どうでもいい過去の話も、すべてを許すことができそうな気がした。キッチンの先にある玄関には、きれいに揃えられた私のヒール。それさえ今の私には許すことができるだろう。しかしそんな夜は、白けた太陽の待つ朝に向かって今も確実に逃げ続けていた。朝を追い越してしまいそうなスピードで、遠く遠く逃げ続けていた。

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