『戦後二百二十年の教室で』(2021年むさしの学生小説コンクール落選作)

珈々らいす作品

はじめに(『悲しきビー玉』『清純な紙』に書いたものと同じ文面です)

 むさしの学生小説コンクール(テーマ;学校2021+)に応募し、落選した作品の一つです。読み返すとなかなか奇抜なものもあったため、載せられそうなもののみ載せるつもりです。

この作品は載せられるものだと判断したのでこちらにアップします!

短編小説になっていますのでお気軽に読んで頂ければと思います。

ブログの特性上、横文字での表記になってしまっておりますがお許しください。また、落選作ゆえ未熟な点もあるやもしれませんがどうか温かい目でご覧ください。

本編

今日も、当たり前に一人だ。早朝に、路線電車のような音を立てるドアを右側に押しやる。教室の中は薄暗く、滑らかな素材でできたクリーム色のカーテンが半分だけ閉まっていた。そこにできた隙間から差し込む若干の白い光が部屋の中を満たし、全体が薄い鼠色に見える。教室の中にあるのは座られる予定のない机や椅子の数々。均一な木目を持ったそれらはまるで兵隊のようにも見えた。悲しい木材の悲しい末路。

 因みに私はその座席のどこに座っても良いことになっている。むしろ自分で席を決めることに意味があるのだ。この場所は、そういう思考を自分のものとする訓練をする場なのである。かつての日本人にはそういうものが欠けていたというわけだ。えてして教育とはそのような過去の時代における流行や人間の営みの非合理さを正すために組み立てられる。そしてその仕組みの中に、その軸となって過去の未完成さが存在することを誰も認識できないまま生きているのだ。未完成でもいいじゃないか、そこから新たなる発見が生まれるのだ。そう言う人間もいる。しかしそうではない。そう思う心こそが新たなる発見に繋がっていないのだ。

 私は席についた。窓から一つ離れた、前から二番目の席だ。私はこの教室で一人の時を過ごしているわけだが、他の人間は必ずしもそうではない。同じ規模の教室に最大十人くらいまでが入ることになっている。しかし必ず空席を作ることは一つの大きな決まり事になっているらしい。実のところ生徒にはその辺りの詳細が明確に提示されることはない。裁縫をする時に玉留めや縫い目を隠すのと同じことだ。誰も、自分や組織の言動に括り付けられた糸など見せたがるわけがない。しかし時々何かの加減で見えてしまったり漏れてしまったりすることはある。テグスが光に当たって見えるように、その姿は時々条件が合った時にだけ見ることができる。しかしなにごともそういうものなのかもしれない。そうでなくては、この世界は不変性を身に纏ったきり何も受け入れなくなってしまうだろう。そんな世界は地球に撒かれてしまう。そうなったら何もかも終わりだ。そのような意味で完全なものなど存在しない。いや、存在してはいけないのだ。

 誰かの足音がする。私の部屋に近づいてくるのだ。ずらりと教室の並ぶ無限に続くようにも見える廊下を、何者かが私の部屋に向かって歩いている。朝の静かな時間だ。誰も学校に来ようとはしない時間。硬い靴底が意図的に床に落とされる音だ。その音は私の心臓を揺らし、ブラジャーと肌の間におかしな汗をかかせた。確実にこの人間は私の教室に向かっている。隣の教室ではない。確実にこの部屋だ。その誰かはきっと浅くゆっくりとした呼吸をし、靴擦れのことでも気にしているのだろう。そういう足音だ。私の五感はこの時実に研ぎ澄まされていた。これほどクリアな感覚を覚えたことはなかった。とうとう足音はドアの一歩前まで迫っていた。そして不意に影が教室の入り口に重なり、どこか生ぬるい風が吹いた。私はその空気に押し上げられるようにして顔を上げ、その人間の顔を見た。

 よくわからない。相手が、私による正確な理解を拒んでいる。そして私はその存在を相手と認識したことに自ら戦慄する。形容できない。理解できない。理解させてくれない。そして徐々に私は諦める。そして私がそう心の中で認めた時その存在は初めて声を発した。

「どうも。」

 不思議と恐れは感じなかった。

「おはよう。」

 私はそう応えた。

「席を決めることができない。おそろしく決まらないんだ。さっきからそのことに対して結論を出すためにこの廊下を何往復もしている。ずっと前からだ。しかしようやくここへ戻ると君がいた。そして一つ可能性が消えた。自分がそこに座るという可能性。」

 私は黙って相手を見ていた。実際見た目だけでは性別さえ区別できない。非常に自然に何かを身に纏っていた。それは決して仰々しくはない。毎晩少しずつ旦那の料理に増えていく悪意ある塩のような感じだ。その存在からは妙な違和感が感じられた。私とは同じ前提を持たない。そういう感覚だ。

「自分のことは、彼と呼んで欲しい。君にとってはそういう存在でしかないからね。」

 教室の入り口で得体の知れない人間らしきものはそう言った。

「わかった。なるべく必要最低限以外は呼んで欲しくないのね。」

「察しがいいね。」

 彼は笑った。空気や彼の肉体が動いた様子はなかったがどうしてか笑っているということは認知できた。彼はそのまま床に座り、鞄を自分の膝の上に置いた。

「ねえ、君が席を決めてくれないかな。」

 私は考えた。実に十秒。

「それでは意味がないわ。あなたが決めなくてはいけないのよ。何もかも。そういう考え方ができないと、今の世の中名前も名乗れないの。わかる?」

 彼は黙っていた。そして革靴らしきものを脱ぎ、それで床を二度軽く叩いた。

「世の中なんてどうしてそんなに簡単に言えるんだ。」

「仕方ないわ。そこにあるんだもの。」

「それを維持できる人間を作るための飼育所だよここは。君に自我はないのかい。」

 カーテンは揺れた。隣の教室に人が入った気配もない。そろそろ時間だ。担当者が来る。タントウシャ。そう、教員みたいなものだ。タントウシャ。実務的な役割を持つ。彼らに自我はない。マニュアルの遂行者。そういう人間が我々の自我を作る。育成する。自我を作るのに自我と自我の衝突など要らなかったのだ。そういう風に判断した。そして生まれたのがこの形の学校だ。だから正しい。タントウシャという名前の人間が私に関与することはいかにも正しいのだ。道に落ちている空き缶を拾って屑籠の中に入れてあげるのと同じくらい正しい。

「空き缶を拾うことさえ、正しくないかもしれないよ。」

 彼は下を向いてそう言った。私はそうね、と返した。全てが自然だった。こういう感覚の繰り返しがきっと自我を作っていくのだ。安定した地盤だ。そう、一定の期間外に出なければ良いのだ。精神的に未熟で知識も浅はかな、全てにおいておぼろげな個人。それは子どものことだ。そんな者たちが接触したらどうなってしまうだろう。気持ちはおろか、言葉だって正確ではない。悲しいけれどそれが実態だ。

「君は今のこの学校を正しい形だと思っているのかい。」

「もちろんよ。」

「ねえ、あらゆる結論が何によって導き出されているのか、何にとっての結論なのか、定めていくことって大切なことだと思わないか。」

「ええ思うわ。」

「じゃあどうしてこの質問に簡単にもちろんだと言えるんだ。本来なら言えるはずがない。おかしい、全てが正しくないんだよ。わかってくれないか。」

 彼の鼓動は早くなっていた。自分のことのようにはっきりと、彼の変化が感じ取れるのだ。私は彼を落ち着かせなくてはならないという使命感を感じた。私は焦った。彼の鼓動を感じるたびに、針の穴に通そうと摘む糸ががくがくと震えるように思えた。私の額からは汗が滲み出た。そこに髪の毛が張り付き、すごく嫌な気持ちになった。

「大丈夫よ、決して思い詰めないで。私のために。大丈夫、私もきちんと考えているわ。答えがなかなか出てこないだけなの。昔からそういう類の人間なのよ。」

「ねえ自我を作ってどうするの。」

「あなた、思想史や道徳の授業聞いていないの?そこでそういうことについてたくさん語られているわよ。」

 彼は依然苦しそうだった。見ているこちらが呻吟するほどだ。壁際に座ったまま、彼はどこかぐったりとしていた。

「自我のない状態がかつての日本人を弱くしたって話だろう。そして自我のない者が生まれるゆえに、自我のあるなしによって強者弱者の関係が生まれてしまう。ちゃんと聞いているさ。ただ、そう説いているにも関わらず決して軍国主義に戻ろうとする動きはない。おかしいと思わないか。」

「皆、軍国主義はいけない思想だと思い込んでいるからよ。また別の方法を考えているのね、きっと。実際、戦争を避けることが何よりの目的で、脅威なるパワーを持つ何かが人々の心身を束縛することを良しとしないこの国家が自我の育成に取り組むっていうのはかなりしっくりくるけれどね。」

「君は、見かけよりたくさん喋るね。」

「他人と話すのが久しぶりなのよ。」

「わかるよ。」

 彼は私の右斜め後ろの席に座った。何も入っていなさそうな長方形の平たい鞄から細い灰色のペンケースとノートを取り出して机の上に置いた。そして机の上に置いた肘に頭を乗せ、ぼんやりと正面を見つめていた。何か考えごとをしているようだった。彼の正体を覆い隠す靄は少しずつ薄くなっているように感じた。その時、どこかこのフロアの見えないところに設置されたエレベーターの音が遠くで鳴った。おそらくタントウシャがやってくるのだ。ヒールの音が廊下に響く。私は彼女の靴音には怯えない。何かを取られたり、悟られたりすることがないとわかっているからだ。彼女の意思の不在を実感として理解しているからだ。それは恐ろしいことだ。私は人間の本質など問題としていない。ただ何もないということが私の唯一性を保証するただ一つの真理だと心得ているだけなのである。それは不信感の塊である。周囲に不信感を抱き続けながら、確固たる自我を保つことは果たして正義なのだろうか。そのために謳われる道徳とは果たしてあまねき道理と言えるのだろうか。そうでしか生きられない人間同士が共存する必要はないのではないか。無理をしてまで生の時を共にするくらいなら多少苦労しても別々に生きた方が良い。しかし豊かさは必ずしも等しく受け入れられないのだ。歴史とそれを引き継ぐ社会はそのことを十分に証明している。

「あら、今日も早かったのね。」

 彼女はまず私に話しかけた。私は頷いた。

「あなたは、新しい子ね。もう挨拶は済んでいる?」

 彼も頷いた。彼女の言うことは全て形式的なのだ。決して感情を含まない。

「それではまず、今日その席を選んだ理由から教えてもらいましょうか。彼は後でいいですよ。まずは聞いていてください。」

 私は彼女を見上げて言った。

「今日は日射量がそう多くはないので窓の近くでも差し支えないと判断しました。しかし窓の真横であると前を向くのに顔を右に向けなければならないと思い、首の状態を損ねる原因にもなると思ったので一番窓際の列に座るのは今日のところはやめておきました。前から二番目なのは、前に何かものがないと落ち着かないからという理由からです。実際二番目から後ろならどこでも良いのですが、西日が出てきた時に、窓から一席分離れたこの列だと、一番目か二番目までしかカーテンなしで西日をカットすることができません。そのため、この席を選びました。」

 彼女はまずまず感心したといったような顔で頷いた。

「うん。まあまあ良いでしょう。八十七点といったところでしょうか。落ち着かない、と言う言葉にもう少し説明が欲しかったですね。そのような不透明な言葉は減点対象になることをお忘れなく。では次は彼ですね。よろしくお願いします。」

 彼にも発言の機会が与えられることで時間が倍かかることが嬉しくて仕方なかった。学校とはえてしてそういうものだ。何をやろうと理念が素晴らしかろうとそのような結論になってしまうのは仕方がない。束縛されるとはつまりそのような意味を持つのだ。そして反抗心や諦観の念を生む。

「そうですね。彼女の顔を遠くから見たとき、右側から見ることになりました。当たり前ですね、ドアがそっちにあるのですから。僕の中でまだ彼女は右側なんです。だから右側をよく知るまでは左側を見ることはできないわけです。そして、今はあなたの話よりも彼女に興味があるから、あえて彼女の前ではなく後ろに座りました。その方がよく見えるからです。その二つの条件を満たすのにはこの席しかありません。こういう小さなことをよく考えるのは得意なのです。しかし大きなことを考えるとたちまち混乱してしまいます。線引きは自分でもわかりません。」

 彼はまだ話したがっているようにも見えたが教壇に立った彼女がそれを止めた。

「うん。理解しました。大体八十点ですね。その席を選んだ理由は素晴らしかったけれど、あなたは喋りすぎました。質問していないことに関して語られても採点することはできません。採点できない要件と業務的な質問でない事柄を私に伝えることは全くの無意味です。無意味なことをする人間はこの社会を維持するのに必要ない存在です。つまりそのようなことをしたいなら私の管轄下でないところでしなくてはならないのです。わかりますか。」 我々は頷いた。タントウシャという第三者が現れたことによって私と彼は一括りになった。つまり「我々」になったということだ。ちなみに私とこのタントウシャは数年間日曜日を除いて毎日会っている。しかし一向に相手のことは不透明で互いに無関心だ。彼女は初めて会ったとき、私はあなたの担当者です。と言ったが名前も名乗らず、よろしくもなければ私の名前を呼ぶこともなかった。それからは少なくともここでの彼女はなんだか漢字の担当者という文字が含む意味すら持たないのではないかと思うようになった。そして私の中では彼女の存在はタントウシャになったのだ。きっとこの学校という組織もそれを甘受しているのだ。いやそういう言い方は正しくないかもしれない。きっとそのようにする意味があるのだ。ある一定の方向性がある。しかしそれを隠したいのだ。私にはそれがわかる。しかし興味はない。知ったところで何も変わらないからだ。時期が来るか我々がわかったふりをすればこの環境は過去の産物となる。それで良いのだ。

「さて。あなたがたはおとなしいですね。良いことです。空気を読むべきところは読み、必要とされた時にはいつでも自らの行動の意図を話すことができるように常に自分と周囲を顧みる姿勢。素晴らしいですね。よく他の子どもたちのことは知りませんが、きっとあなたがたはエリートコースか何かでしょう。素敵な称号です。これからも頑張ってください。」        

 彼はそこで質問をした。私は彼の勇気に感心した。

「あの。担当者先生はどうやって担当者になったんですか。自分も興味があるんです。教えてください。」

 彼女はしばらく考えた。あるいは考えるふりをしていたのかもしれない。彼女がこんなにも長考しているのを見るのは初めてのことであった。

「あなたはこの職に就くことはできません。」 まるで英語を日本語訳したような言葉遣いで答えた。彼はどうしてかと尋ねた。

「生まれた時に行った適性検査によってあなたの進路はすでに定められているからです。」

「なんですか、適性検査って……。」

 私は呟いた。

「誰しも受けています。例えば親はその適性検査で自分の子が家業を継げないと知った場合、その子どもを手放すこともできます。そういう子どもの親代わりになってあげる職業をする人間もいるのです。それも適性検査によって決められます。私は、タスクをきちんとこなす能力に長けていて人格に突飛性もないのでここで仕事をすることになっています。」

 彼はまた何か言いたそうにした。私のところにまで伝わる鼓動が、一秒ごとに早く、強くなった。しかし彼女は彼を睨みつけ、その言葉を飲み込ませた。私は彼女の表情が動くのを初めて見た。

「このことは誰かに言ってはいけません。調査してもいけません。」

「どうしてだ。」

 彼は言った。低い声だ。

「兎にも角にもです。あなたがたに良い人生を歩んで欲しいのは本当です。しかしここで支援できるのはあなたがたの資質に見合った能力を与え、名誉を授けてやることだけです。しかしそれの何が不満なのでしょう。あなたがたには歴史と社会の勉強の意味でこのことをお伝えしましたが、少なくとも在学中に妙なことを起こしますと、私があなたとそれからあなたを、責任を持って処分しなくてはならないのです。」

 彼女はシステマチックにそう言った。しかし「あなた」と二回言ったときは我々の顔をじっと見て、大きな声を出した。

「どうやって、処分を。」

 彼は不安感に駆られ、汗をかき始めた。

「殺傷処分です。」

「待てよ、それってあなたが、僕らを殺すってことですよね。」

「ええ。何もしなければ良いのです。何もしなければ何も起こりません。」

 はじめてタントウシャの崩れた表情を見たような気がした。それは奇妙な体験であった。いつも無機物だけが存在する部屋で、誰かの高笑いが聞こえてくるような恐ろしさだ。私は目を瞑った。そしてもう一度瞼を開く。するとタントウシャは我々のすぐ近くの座席の椅子に腰掛けていたのだ。あり得ない光景だった。今まで彼女は教壇の下に降りたことさえなかったのだ。そんな彼女がこのような場所にいるわけがない。教壇と机の集団の間にはある種の結界のようなものがあったはずなのだ。しかし二人はそのようなことには関心を持っていなかった。なるべくしてこの構図が成り立っていると、そう信じていたのだ。それはある意味現実というものの実感だった。この光景でさえもしかしたら私の教育のために用意されたものなのかもしれなかった。しかしそのような考えは排除しなくてはならない。そうしなければ私がここに拘束されている意味は無くなってしまうからだ。彼女は彼の方を見ていた。彼もまた彼女の方を見ていた。

「ねえ彼。君は、君はね、何か行動を起こすべき人物ではないのよ。」

 彼女は彼の目を覗き込むようにしてできるだけ穏やかな物言いをした。

「わかっている。」

「ねえそれであなたは今のままいれば何も間違っていないのよ。ただの一つも、間違いなんかないんですよ。」

「わかっている。しかしそれはあなたがそう思うというだけだろう。実際、自分とあなたは無関係だ。」

 その彼の言葉を聞いた瞬間、私はなぜか実に自然に、次のように呟いた。彼の言葉がなにか私の中のボタンのようなものを押したのだ。それゆえに私の言葉はどう考えても能動的なものではなかった。それは反射的という表現でも表せない。ただの反射であったからだ。

「でも私たちがここで自分の人生への疑念を持った時点で、すでに適性検査は正しくないのではないのかしら。」

 タントウシャは少々呆れた顔をしたが、まだタントウシャとしての在り方を貫こうとしているのか一応は何も言葉を発さなかった。全く往生際の悪い人間だ、と私は思った。

「そんなことないのよ。おおよその基準ですからね。」

 タントウシャはため息混じりにそう答えた。「おおよその基準ならどうしてこんなに柔軟さに欠けるのです。」

 彼はそう言った。

「ねえ、彼。彼女に何言ったって無駄よ。」

 私は彼に敢えてそう言ってみた。彼女が逆上するかもしれないと思ったからだ。そして私は次の瞬間彼女の表情を見た。彼女の表情はどこか綻んでいた。固く凍っていたものが溶けた感じだ。先程までは周囲の温度が冷え切り、それにより凍りついてしまうことを避けるがゆえに色々な無駄なものが出てきすぎていたというわけだ。もちろんそれは性格の面でもあるし、おかしな汗のことでもある。つまりはタントウシャがしっかりと人間であったということが露呈してしまったというわけなのだ。私はそのことに少し動揺していた。これを知ってしまうことで色々なことがうまくいかなくなるような気がした。調子が狂うのだ。仕事は仕事、この場にしかない人間関係。そういうふうに思うことがこんなにも精神を安定させていたのだということが初めてわかった。そしてそのような環境を完備した、現代の社会と呼ばれるシステムの中でのみうまくやっていくためには実際ここで得られるようなことしか必要がないのだ。しかしその分野でのプロフェッショナルになることで、理想の誰かとの出会いなどは自然にカットされていく。それがひいては少子高齢化にも繋がっている。そして社会を管轄する側の人間からしてみれば、誰一人として無駄遣いできなくなっていくのだ。だからこそこのようにカテゴライズして、おおよそ少人数でも社会がうまく回っていくようにする。私個人としてはそこまでして回す必要のある社会であるのだろうか、とも思う。しかし仕方がないのだ。そういうものなのだ。戦後数十年という時代に生きた日本人は個人のことを考えすぎて失敗したのだ。その逆の方向に思考が向きがちになるという心の動き自体は非常に理解できる。しかし軍国主義には戻ることができない。半迷走状態だ。今年はちょうど戦後二百二十年記念の年だ。仕方ない。何事も難しいのは理解している。

「でも、あなたは何を主軸にして生きているのです、タントウシャさん。」

 私は初めて個人的に彼女に話しかけてみた。彼女の顔はたちまち曇った。彼女は明らかに憔悴しきっていた。そして焦りを感じていた。自分の任務が遂行されなかったとなるとおそらく裏でひどい仕打ちを受けるのだろう。

「社会ですよ。世のため、人のため、です。そう教えられてきたんです。間違いない。」

「でもあなたは社会として生きることはできない。あなたとしてしか生きられないのではないの?」

「どちらでも構いません。関係ないですから。私は守られてしまったのです。さまざまなものにね。だからそれに関わっていくのは仕方ないことです。避けることはできません。」

 彼は依然黙っていた。タントウシャは続けて話した。

「そして、そろそろ一限が終わります。ハンドアウトをもらっておいてください。これで復習をすること。私は一度部屋に戻らなくてはなりませんから。」

 そう言って彼女は教壇と机の結界を潜り抜けて、教室を後にした。配られたハンドアウトには「政治のしくみと歴史」と題が書かれていた。

 彼はそれでも黙っていた。

「彼。あなたには名前はないの。」

「ないさ。だから君のことも名前がないものとして見做している。これでフェアだろう。」

「関係ないわ。」

「自分は自分。そういう軸でしか生きてないからな、お互いに。そういうものだろう。でも極めて自然なんだ。こういうのって。」

 彼の周りの靄はまた少し濃くなった。心を含める全ての現象は全てランダムなわけだ。そんな風にも思った。それは不思議な感覚だった。そう思うことで全てに諦めがつく。今まで私は理にかなったことしか信じられない人間であった。しかし現実は理屈というバックボーンを持たないものばかりを用意しているのだ。針に糸を通そうと思っても、針の穴に見えていたものはただの黒い点であった、という感じだ。しかしそれがわかってしまえばそれはなんてことない。ただ、糸を通そうとしなければ良いだけの話だ。

「ねえ、あなたは今までどこにいたの。」

「急に生まれたんだよ、適性みたいなもの。前にいたところでの適性が急に下がって、こちらの数値が伸びたんだ。異常だからといっって幹部が教室を変えた。」

「嘘ね。」

「やはり君のことは騙せないか。」

 彼は笑った。彼の顔は見えないけれどなんとなくわかった。

「あなたはシステムをすでに理解していたから、いつもと色々な問題への回答を変えたのでしょう?そうしたらうまいことこの部屋に配属された。しかも、私のゴガクユウとしてね。」

「お見事。」

 カーテンは風がないのに揺れていた。優しい光が窓から入って、教室の中の小さな埃が宙を舞った。

「本当のことを言うとね、君とどこかで会わなくてはいけなかった、そういう気がしたってだけなんだ。」

「なんとなくわかるわ。」

 私がそう言うと彼は小さく笑った。私も彼と同じように笑った。何かが私を動かしたようにも思えた。しかし、何はともあれ私は笑った。それだけのことだ。原因より結果。そのような考えに我々は飼い慣らされたのかもしれない。その方が楽だからだ。

「でもどうにもならないのよ。」

「そうだね。このままでいるしかない。でも個人的には君を変えることはできるんだ。少なくともあのタントウシャと二人でいる場合と比べればね。」

「そうかもしれないね。」

 彼は私の言葉に哀しげに頷いた。

「僕は君で、君は僕なんだ。結局はそういうことさ。だって僕と君は、関わり合って変化していく存在だからね。そして僕の中身は君にいつか吸収される。このシステムが生んだことさ。君はその出来上がった心身で外の世界に飛び出すということ。優秀なんだよ、生まれつきね。だから半ば精神的な共食い争いに間違っても負けることがないように君は隔離されていたんだ。」

 私は何も言えなくなった。システマチックなこの環境が求めているものはわかった。そして個人が社会のためにのみ育成されていることもわかった。しかし彼のことがいかにもわからなかった。不透明なのではない。全てがクリアなのに、どのパーツも繋がらないのだ。私の神経は傷つき、摩耗されていた。

「あなたは私なのね。私が一番初めに、選ばなかったほうの私なのね。」

「そうさ。だって僕は、君であり同時に男なのであるから。」

 私は少し泣いた。なんだか寂しい気持ちになった。優しい春の日差しを思い出した。光に包まれた誰かが笑いかけるような穏やかな心地とどこか底知れぬ不安。何者でもなくなるその不安がどこかにあったはずだ。そしてそれを見つけ出すこともできるはずだ。何も変わっていない。ただ、この社会とも呼ばれる奇妙な枠組みに片足を入れてしまっただけだ。まだ、思い出せる。あの時から決まっていたのだ。私が生まれた小春日和の四月。

 彼は言った。その時を待つだけなのだと。私もそんな気がした。変わらない曇り空を見て、それから小さな机に顔を伏せて誰かに呼ばれるのを待った。彼は春風の到来をわずかに期待しながら窓の外を見ていた。

他の落選作

 今回は「むさしの学生小説コンクール」に五つ応募しましたがそのうち三つをここに載せました。

他の作品も下に貼り付けておくので、読んでいない方でご興味のある方はぜひどうぞ!

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