『人間失格』読了。「世間とは個人じゃないか」という言葉にも言及する。

本について

 昨日、本を読み終えてもいない中、『人間失格』と自分を照らし合わせたような記事を書きましたが、その後随分読み進めてしまって結局読了できましたので全体的な考察や感想を綴っていこうかと思います。

昨日の記事はこちら↓

1、全体的書評

 まず大前提として、この作品が世間の中で普遍的価値を見出されたことが不思議で仕方がない。

この作品は、いわゆる、世の中からあぶれた少しの人を救うタイプの作品であって、大衆うけするものではないのではないかなと思ったからです。

また、いち大学生の分際でこのようなことを抜かすのは本当に差し出がましいのでしょうけれど、あまり彼は文章が上手でないように思えました。

もちろんとても頭がいいから言葉選びは巧みですし語彙も多い。そして素直でストレート。しかしそれゆえか、心にくるようなシーンや表現はあるように思えないのです。

つまり何が言いたいかというと、この作品において評価されるポイントというのはただそのテーマと中身の重さであるというわけです。

実際私はテーマの価値も中身の重さもわかります。しかし、それは私がどうしようもなく根本的に絶望していて荒んでいてナイーブで色々なものを渇望しているような人間だからなのではないかと思わないでもないのです。

要するに家族を大切だと思ったり、生活を楽しんだりと、とにかく健全に生きている人にとってはどこがどのように面白く感じるのか甚だわかりかねるというわけです。

しかし私のような人間にとっては間違いなく意義ある作品になり得るだろうと思います。先程述べたように、彼の言葉はとても的確でストレートゆえ、たまらなく共感できるような細かい描写があるはずなのです。

私は近頃自己投影するような読書をしていませんでしたがこればかりは自分のことのように痛く苦しい作品であったように思えます。

2、作中にある、世間とはなにかということについて

 「世間とは、いったい何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。」

 このような記載が作中にあります。この文章の後には、それでいてとても強く厳しく怖いものだというイメージがあるということも書かれています。

 私も同感でした。世間というものの実態が掴めない。しかしそれこそ多くの人間がこの世間というのを脅しのように使い、自己の戒めにそして他人への牽制に用いているように聞こえるわけです。私が葉蔵と違うのは多分そのような世間に対してどちらかというとおそれより怒りを感じているというところでしょうか。

そしてこの後作中には「世間とは個人じゃないか」と書かれます。

 要するにこれは、世間という実体もないような言葉で互いを牽制し合い、制限して、自分がセーフティをとるいわば臆病で物足りない生き方をしていることを正当化し周りをその言葉を使って道連れにする、そういう人間同士のあり方を発見したその時に出た言葉なのではないかと私には考えられました。

 私はそれを思った時、なるほど、と本当に感心しました。世間なんて、怒りを感じる対象ですらないのかもしれない。それでも世間という個人は私を縛ろうとするけれどそんなものはまやかしの団体意識で、ただのチキンレースにすぎないのだから。

しかし葉蔵はそれを知っても「冷汗、冷汗」と言って笑うだけだった。ここには彼の人に対する恐れの底深さがはっきりとうつっています。多分その恐れが半端なものなら、ここで構わず堀木を怒らせてしまったのではないかと思うのです。

つまりその恐れの深さが彼に道化を染み込ませ、それが彼の本質になり、そしてその恐れがあまりに根深くそれは世間の前に個人に対して向いている種類の恐れであったからこのような結果になたのではないかと考えられるわけです。

太宰治のあまりの素直さに心が痛い

 ヨシ子が犯された時の気持ちなどは特にしっかりと細かく書かれていて胸が痛くなるばかりでした。

あらゆる場面で情景描写や心理描写などというものよりもいつも彼の内面をくっきりと写すことに力を注いでいるように見えました。

それゆえ私は時に彼の言葉に頷くばかりで、それでいて見透かされているようでそして私のあらゆる感覚はもう全て他の人間によって体験されたことであるゆえ価値がないただの苦しみであり単純な絶望であるといわれているようで怖くて怖くて仕方なかったのです。

私はどんな作品が書きたいのだろう。何が書けたら救われるのだろう。そう考えずにはいられない作品でした。

人間、失格。

ああ本当に胸が痛い。苦しい。

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