高橋源一郎「さようなら、ギャングたち」第三部について考える。 でぶのギャングの言葉やヘンリー四世の死についても言及する。

本について

はじめに

 ここまでで、この本の全体的な解釈、そして第一部第二部それぞれの合計三記事を書いてきました。

以下にリンクを貼っておくので興味のある方はぜひ。

この記事ではとりわけ「第三部」の内容に関する感想解釈をしていきます。

高橋源一郎氏本人は第一部、第二部は「躰」で、この第三部は「頭」で書いたとおっしゃっていますが、この章もまた魅力的でいかにもエモーショナルなものであると感じられました。

それでは早速内容に入りますが、あくまで私個人の見解ですので、その点はご理解いただけると大変嬉しく思います。

「でぶのギャング」と「ヘンリー四世」

 「頭」で書いたということもあり、この第三部は他にはないまとまりがあります。とはいえ、全体的に夢の中で起こった出来事を次々に書いていったような不思議さはあるのですが、今までの第一部と第二部をまとめにかかっているということを考えると、その役割は十二分に果たしているように思えます。

私は最後の最後、「わたし」がギャングであると思い込んだまま死ぬシーンについて、彼がギャングたちのあり方に惹かれていったという背景もあるのだろうと思うし、ヘンリー四世やS・Bをみて、自分もこういなくてはならないと思ったという背景もあるのだろうと思うのですが、本当に注目したいのはそのもっと前のシーンです。詳しいことは以下に述べていきます。

注目したいというべきなのか、好んでいるシーンというべきなのか微妙なところですが……。

まずは「わたし」がギャング四人に対して詩の授業をするところです。

中でも「でぶのギャング」の言葉の端々には、高橋源一郎氏の思いが書かれているように思えるのです。また、彼の立場であり、彼の考えでありメッセージであるようにも思えたのです。そして、どのページよりもあるいはまともと言えるかもしれません。

「私たちは、ギャングであることは相対的なものだと考えました。私たちは、私たちの生存しているこの世界との関係の中でのみギャングであり、この世界との関係の変化だけが私たちをギャング以外の存在に変化させるものと考えました。」

このような一文があります。つまり、彼らは(あるいは作者は)ギャング(過激派のことなのかもしれない)であることを、社会との関係の中に成り立つものであると規定するのです。

この世界の変化のみが彼らをギャングとしてしまうのだというあまりにも切ない言葉を吐かせるためにそう書いたのかもしれませんが、あくまでギャングであることは自我を保つための必要十分条件ではないということが明言されているのです。

私は少し驚きました。あくまでこの社会に対応して出てきたに過ぎないものであると自ら自覚しながら、その社会に対して、批判する前に変わってくれたら良いのにということを切実に物悲しく訴えているように見えるからです。

「ギャングである」ということを特権であると思ったりそのことに卑屈になったりはしなかったと書いてあることからしても、「ギャングである」ということとアイデンティティが完全一致ではないことがわかります。

以上は彼にとってのギャングつまり過激化というもの、そしてさらにいえば社会というものに対する考え方の表明でしたが、以下は少し違ったテイストに変わっていきます。

「私たちは、私たちの視野もまた視野である限り、避けがたい限界をもつものと考えましたが、同時にそのことが私たちの手を縛ることのないように心がけました。私たちが、無限の相対性の連鎖の一つとしての視野しかもてないとしても、私たちは私たちの生存の与件を呪詛するよりも、喜んで受け入れるべきだと考えました。」

私はこの部分がとても好きです。「連鎖」の一つであり、世界との関係の中で成り立ついわば便宜的な存在としての自分を受け入れ、その視野と在り方の限界を知りつつもなおやはり自分を受け入れる姿勢が見られます。

この発言により、ぐっと、彼らが大変強い意志を持つ清々しい人々なのだあるということがわかるのです。そしてつまり高橋源一郎氏が「ギャングたち」をそういう存在として描きたかったということも伝わります。

そして自分の視野に限界があり、それはそれとして受け入れつつも、それに縛られないように視点を広く持とうとする考え方は私たちの生活にも応用できるのではないかとも思えますね。

そしてこれが第三部において最も好きなシーン。

猫の「ヘンリー四世」が死んでしまうところです。

悲しい、極めて悲しい。多分すごく「死」というものに触れたかそれを考え続けて人生を送ってきた人なのでしょうね。

悲しさが溢れ、そこにはリアリズムの影も見える。

「ヘンリー四世」が殺してくれと「わたし」に頼むとき、その理由は自分がくさくなることが恥ずかしいということなのだと言いました。そして泣いていた。

この「ヘンリー四世」は極めてギャング的であるとも言えると思います。

そして、そんな「ギャング的性質」に対して「わたし」は彼のえん髄に針を突き刺すことでコミットするのです。

この部分の描き方は、p 317を見ていただいて確認してもらいたいほどです。

本当にため息が出るような感覚さえ覚えます。

その中で「わたし」はギャングであると思い込んでしまう。S・Bやでぶのギャングそしてヘンリー四世を見て自分もギャングでなくてはならないのだと思い込んでしまう。

そして死んでいく。

とても理にかなった、とても感傷的な素敵な死であると私には思えました。

まとめ

 今回は「さようなら、ギャングたち」のとりわけ第三部に関しての見解を述べてきました。

ここまでで、この作品に関しては全体の書評、第一部、第二部、そして今回の第三部の計四記事を出しました。

私自身、きっとこれからもこの作品を何度か読むと思うので、その度何か新しい発見があればブログの記事にしていこうと思います。

なお、このブログで書いております感想や解釈は私個人の見解ですので、その点はご理解いただけると嬉しく思います。

ここまでお付き合いいただき本当にありがとうございました!

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