『人間失格』を読んでいて、自分のささやかな絶望をおもう

本について

 この間深夜に『人間失格 太宰治と三人の女たち』という映画を観て、どうにも私ができないほどの苦痛を背負って過ごした彼が書いたこんな大それた表題の本を読まずにはいられなくなりました。

映画の感想記事はこちら↓

私は以前大学に入った頃であったと思いますが、一度これを読んでいます。しかしその時の私はあまりにも頓珍漢で、それでいて(彼風の言い方をするなら)しっかりと人間だったのだろうとおもうのです。

少々考え屋なところはあって、少々ロマンチスト的なところはあったにせよ、ただクリアで純粋で、何かをちゃんと欲していて、真剣に喜ぶこともできた。

誰かといる時も虚無感を感じなかったし、不安を感じなかった。一緒に毒を吐いていた人の裏に人の心の暖かさが見えてもむしろ喜ばしいくらいだったかもしれません。

それゆえ、だとおもうのですが、そのときはまるでこの作品がわからなかった。ただ読み飛ばして、普遍的な意味での価値しか見出していなかった。こういうものもあるのか、という感じだった。

しかし今は、涙が出そうなくらい、本を閉じてしまいたくなるくらい、わかる。本にも映画にも共感や自己投影というのを近頃しなくなったけれども、これにはどうにもそういう気持ちを抱いてしまうわけです。

この二年間でいったい何があったんだろう。

今はただ、自分を自分で完結させたいという気持ちがある。これのために最高の文章を書きたい。それで根本的な絶望から救われるのかはわからないけれどそれでもやってみないと気が済まない。そのために私は何かを書いたり書けなくなったりして、そして生きていくためのお金も必要だから暗号資産やらつまらんアルバイトやらに足を突っ込みながら過ごしている。

教職課程がどうしてもうまく行かなくてうまく行かなくて辞めたいけれど親と喧嘩などする気力もなくて無益な時間を過ごしてただ立ち止まっている。

自分に思ったよりも能力がないことも悲しい。落ちてみてもいいという覚悟があるつもりだけれどなんだか落ちてもいけず、家族(ただ血のつながりをもってそれによって愛情をもっていると勘違いしている集団に少なくとも私の家族については、みえる)そういうものは何一つとして信じていないから、そこと親密な関係を保ちながら生きている人を見るとどうにも胸がざわついて疑念のような恐怖のような嫉妬のような、そういう気持ちを持つ。

それがこの本には鮮やかなほどに書かれていて、彼の人生を考えればそれがただ嘘の塊でないことも明らかで、私はどこか救われたような、全能感のような気持ちを感じることができたのです。

そして自分の性に悲しむこともできた。

二年間を経て得た私という人間の性は、求めていたものでもあったのですが、それがいかにしても重く感じるときもあります。それは私に弱さによる受け皿がいまひとつないからかもしれませんが。

私はその弱さと孤独感をちゃんと知らなくてはならないのです。

もう教職課程も取れても取れなくても辞めても辞めなくても何もかも関係ないような気がしてきました。

とにかくなんだか本を読んでいてこんなぼやきを書かずにはいられなくなったのでここに記してみた次第です。

何かの役に立つとは思えませんが、共感あるいは批判、感想、そういったものがあればTwitterのコメント欄にでも書いていただければと思います。

読了してから書いた記事もアップ済みですので、下に貼っておきます。

今回も、ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

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