結局は当事者ではない。お前は原爆を知らない若者の一派である。だから何も言及しないでくれ。偉そうなことを言うな。原子爆弾が今も世の中にあることについての是非を論ずることをする資格はない。
きっとそう思う人もいるのではないかと思う。私が当事者であったらそう思ってしまうのかもしれない。しかし、それでも私は私の時間軸の中でしか生きることができない。
そういう身分から、何かをいうことしかできないということです。
原爆が落とされてから百年にも満たない日本は、その後オリンピックを2回も行い、今に至ります。それはすごい成果であるし、一種の平和がもたらされたのは言うまでもないでしょう。
そんな日本が今、原爆廃止の条約に参加すべきであるのか否かという問題が浮上していますがここで難しい立場なのがこれもまた日本だということです。
日本はそこには署名せず、核廃止をゴールとすることは他の人々と同じことなのであるが、それは大国とともに目指さねばならないものだという考えを主張する立場であるようです。
当然被爆者やその家族、あるいは戦争に深い個人的な悲しみを持つ人は、それをよしとしないわけです。九条や核廃止三原則等を信じ(ざるを得ないのかもしれないけれど)、核をなくす取り組みを積極的に行わないことに焦燥感を感じている。
しかし国としても立場がある。国を守らなくてはならない。今の状況からさらに両手を上げてしまったらどうなるだろうか。今の情勢や核保有状況を見て恐怖を感じずにはいられない。
そのジレンマが解消されないというのはいかにしても大変なことであるとは思います。
しかし私も初めに述べた通り、「個人的な戦争へのかなしみ」を抱くことができなかった世代です。
そしてそのままこのぐらつく世界の中の日本の国民としてここにいるわけです。それは、核などへの嫌悪感より先に、「戦争をしない世の中であって欲しい」という気持ちが先走ります。
それは戦争に個人的ではないけれどこれまでの学習や情報収集などによって得られた「未知のものへ」としての恐怖があるからです。
相容れないから、結局個人的に苦しんでいないから、また歴史は繰り返してしまうのだと思います。
しかし仕方のないことです。自分で悲しまなくては学び取ることはできないのだから。
空に、どこか古い悲しい記憶が立ち込めているようにも思えるこの八月。
私も何か気の利くことをいえたら良いと思う。そういう人間になれば実質的に世界を動かすことができなくとも、何かの役に立つかもしれないから。
しかし今はうまくいえそうにない。ただ夏の空を見つめて感慨に浸り、少しばかり実際的なことを考えるだけです。
だからとりあえず考えたことを上に書いてみました。
もう二度と恐ろしいことが起きないことを願う。そして私も含めて多くの人が自由に、そして季節を感じるゆとりを持って暮らせるような世の中でありますように。
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