映画「ドライブ・マイ・カー」を観て思うこと。ラストシーンや妻のこと、無音のシーンについての考察もしてみる。

映画

導入

 まず一つ言えることは、原作とはずいぶん違っているということです。これは、おそらく、イエローだった車がレッドに置き換えられている部分がその象徴となっているのでと思います。やろうと思えばイエローにだってできたはずなのです。

それをあえて外しにきている。つまりこれをもって、書籍版「ドライブ・マイ・カー」と映画版「ドライブ・マイ・カー」は別ものなのだということがはっきりとするわけです。

言わんとしていることはもちろんおよそ同じです。しかしことの運びが違う。拡大されている。

だからこそ底に一つ一つの含みが生まれる。シーン毎に何かしらの意味が生まれてくる。それは短く簡素な作品を大きな形にしていくという大きな営みがあってこそのものなのではないかと思いました。

さて。ここからの流れですが、あらすじをざっと書かせていただいたのち、感想や解釈を述べていきます。いくつかのトピックに分けますので、よければ興味のある部分からご覧ください。

なお、あらゆる部分にネタバレを含みますのでご理解ください。

あらすじ※ネタバレ注意

 ネタバレ注意とはいったものの、ネタバレも何もないかもしれません(笑)なぜならネタを大事にして観るような作品ではないからです。もっと別の、映像としての描写の美しさを楽しむ映画だからです。しかしひとまず、書いていこうと思います。

主人公の家福には妻がいた。子供もいたが、幼い頃に亡くなってしまっている。それから二人は変わっていってしまった。

しかし二人の生活に互いに満足していた。しかしただ単に目の状態から変わったというだけだ。

時が経ち、妻は物語を語り始めるようになった。それは多くセックスの最中やその後に起こった。しかし彼女は明け方になるとそれを忘れているので、家福はそれを記憶しておき、彼女にいつも語った。それを彼女はメモして作品にしていた。

そしてある時彼女は家福に「今日帰ってから話があるの」と言ったのだが、家福はこれまでの関係や雰囲気のようなものが壊れていってしまうのが怖くて無意味にドライブしてから帰宅した。

すると妻は倒れていてそのまま亡くなってしまう。家福は自分がもっと早く帰っていればと悔やみ続けている。

その二年後。

家福はチェーホフの「ヴァーニャ伯父さん」を開演するにあたっての審査員をすることになる。その際、自分で運転して事故でも起こされては困ると主催者側に言われてしまい、仕方なくみさきをドライバーとして雇うことに決める。

しかし彼女は寡黙な代わりにものすごく運転がうまかった。

二人は時間をかけて徐々に距離を縮めていく。

彼女と話す中で、彼が今まで抱えていたものが露見し始める。例えば、彼女が他の男と寝ていたこと。それについてずいぶんと悩み悲しみ苦しんでいたこと。

そんな中、以前葬儀を除くと一度だけ会った、彼女の相手の一人であり同時に彼女の作品に出演した俳優の一人でもある男(高槻)が「ヴァーニャ伯父さん」に出演することに。

どうやら彼は、家福の妻の作品に感じた輝きを家福にも求め、このオーディションに参加したようであった。

数回、彼と話をして、彼という人間がわかってくる。彼は(妻の行動を知っても何も言わない)家福とは対照的な、素直で単純で演技などせず自分のままに生きているような類の男であった。

家福は初めこそ彼に良い印象を持たなかったが徐々に自然な好意を持つようにすらなる。

しかしそこで彼は傷害事件で逮捕されてしまう。

家福はそこでみさきの運転でみさきの故郷まで連れていってもらうことにした。その途中、彼女と家福は話をする。家福はそこで彼女も土砂の下敷きになった母親を助けなかったということを明かした。

二人は同じように自分の何かしらかの弱さや欠損を抱えて、同じように重要なものを損なってしまったという共通点をもって何かを分かち合う。

……

ここからラストシーンに向かうという感じです。

だいぶ原作と違いますが、かなり素敵な仕上がりですよね。

全てを通した感想

 まず、車のシーンがとても長いことが特徴ですよね。シーンが切り替わってすぐに目的地というのではなく、言葉を使わずに行間を描き切っているのが素晴らしいと思いました。

また、何も話していない部分なども時間を贅沢にとって表現し切っている。この妥協のなさが「みさき」を際立たせているし、彼女と話をするまでをきちんと視聴者に実感させ、最後の二人が交差する部分への感動につなげている。見事だと思いました。

そういう尺の使い方が本当に素敵で、斬新で、そんなところに心惹かれました。また人物の心情もシーンも、まさに含蓄があるという感じでした。

つまり全てが重く響き、そして美しい。

また、あえて、ヴァーニャ伯父の中の一番肝心な部分を手話にしたこともものすごく頷けます。

テープで妻が話していたところを手話にすることで家福の心に妻を描かせている。「大人しく死にましょう」というところはなんとも素敵だった。

そのように一つ一つ、すごく工夫が凝らされていて、間の置き方や表現の仕方の全体の雰囲気が、シーン自体は全然違うのに確実に村上春樹氏であり、これも感心しました。映画になっても、流れが変わっても、そこにはちゃんと村上春樹の風が吹いているのです。

そんな風に、すごく素敵な心の世界のようなものを見せてもらったように思います。ロマンスでもない、単なる芸術が一刻一刻流れていくように感じたのです。

解釈1 妻とはどのような人物なのか

 まず原作ではこれについてほとんど一切の見解が出されていません。しかし、この映画の話をするなら違ってきます。

彼女は自分の創作のために行為をしていたと取れるのです。原作中にも言われている、家福が「本当に」理解できなかったのはこの「創作のためのセックス」だったのではないでしょうか。

関係がその都度できては切れていく俳優たち。彼らはかわるがわる彼女に創作へのエネルギーを与えていたのではないかと思うのです。

だから創作のためのセックスでもあったのではないかと思うわけです。

男たちはあらゆる創造のトリガーとなって、力が吸い取られてしまうと関係が解消されていくという感じであるように見えました。

まるで「ダンス・ダンス・ダンス」のアメみたいですね。

しかし家福は彼女に愛されていることをきちんと知っていた。それは私の想像であるけれど、家福にはそのトリガーの役目を与えていない。

つまり、逆にいうと彼女は他の男たちなくしては創造者となることができない。だからこそそれを続けなくてはいけないのだけれど、すなわちそれは家福には別だということにもなるのです。

家福は特別だから目的のもとのセックスではないのです。それはしっかりと愛を介在させたセックスであるわけです。もちろんその副産物としての物語はついてくることはあっても、その大元は愛なのです。

そのロジックを家福は今ひとつ理解できていないけれど、しかし彼は彼女が誰かと寝ていることに悲しみを覚えつつも何も言いません。

おそらく感情的に彼女を理解したいと思う気持ちと、同時に感覚的に自分がなんらかのそのロジックによって他の男たちとは違う特別な愛をもらっていたことをわかっているから、色々な思いを抱えつつも、彼女との関係をこのまま維持したいと思い、苦しさを内に押し込むことができたのだろうと思います。

解釈2 途中の沈黙について

 北海道に二人が着いたあたりで、一気に音がなくなって、目的地につく少し前に車のドアが開くところで音がまた戻ってくるというシーンがありました。

これは一体何を表すのか。

このシーン、ドアを開けた時に家福が何かを捨てていたようにも見えたのですが、これは何なのか。

つまり家福本人が沈黙を葬っているようにも見えるわけです。では、その沈黙が何を示すかというと、おそらくは彼の今まで溜め込んだものでしょう。

北海道に来た時、それを深く感じたのではないかと思うのです。

そしてその後に彼女と彼の間には親密なものが生まれます。この沈黙はそのシーンへの伏線と捉えることもできるというわけであります。

またこれは完全な私の憶測ですが、「音(妻)が亡くなったこと」と「音が無くなったこと」をかけているという風にも取れます。

この場合、音が死んだこと決着をつけたという風にも取れるのです。この地に着いたことがその区切りになるということですね。

死んだことを死んだこととして受け入れ、勇気を持って知るべきだった事実があったこともそれはそれとして受け止め、その上で彼女のその全てを理解し次に向かっていくというそのための間だったのではないかと思うのです。

解釈3 ラストシーンについての憶測

みさきは「この車が気にいった」と言っていたため、もしかすると譲り受けたのかもしれない。緑内障になった家福はもうその車に乗ることができないので、大切にしてくれるであろう相手に渡すのは自然な流れに思えますよね。

先程の話の中で出てきた「次」という段階がここで示されているように思えるのです。

韓国であるのと、後ろに犬が乗っているところからすると、もしかしたら韓国人の夫妻と知り合いになったのかもしれませんが、もちろんどこにもそれは書いていないのでわかりません。

しかしひとまず、車は譲り受けたものなのではないかなと思うのでそれを書いてみました。

まとめ

このように多くの部分について考察し、感想を述べてきました。

なんだか久々に良質なものを観たように思えて、心が清められたような気がします。

原作を映画にするとなるとどうしても同じことの繰り返しや、あるいはイメージが嫌な形で具現されて嫌になるかのどちらかであるにも関わらず、これに関しては全くの逆でありました。

イメージは良い方向に具現化され、話は奥深さを増し、間ははっきりと描かれている。


素晴らしい映画でした。

それでは今回はこんなところで。まだご覧になっていない方は、観ていただきたいおすすめの作品です。

ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

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