幼少期のことに関しては今までにいくつか書いてきたかと思います。また、小学生の時のことも書いたように思います。プロフィール欄にあるので、気になる方はぜひどうぞ。
今回は中学校という煩わしい小社会の中で私がどのように過ごし、悩んだかを述べていこうかと思います。
私がその頃のことをうまく整理してもう心に嫌な意味で残したくないということもありますし、今悩んでいる方の役にも立てれば嬉々たることであるなと思いながら書いてみようと思います。何せ私のケースは一般的でないだろうと思いますから、もし、そこから断片的にでも役に立つことが見付かればという程度の話ではありますが。
さて。私が中学校生活で特別楽しかったと思うことはさしてありません。強いて言えば休み時間の友達とのおしゃべりとかでしょうか。
その代わり、よく悩んでいたことはあったように思います。特に部活のことと、人間関係のことです。
私はテニス部に所属していました。なぜそうしたのか自分でもよくわかりません。吹奏楽部に入るつもりだったのです。しかし何故か突然、導かれるようにしてテニス部への入部を決めてしまったというわけなのです。
仲間は初め九人ほどいたはずですが、二人はあまりの厳しさと理不尽さと規則の多さにやめていきました。我々が一年生の時まで先生たちは優しかったのですが、その分先輩たちは大変その勢いを増してしまい、我々に辛く当たりました。
先輩たちは理不尽なことも言ったし彼女らの中ではいじめ、彼女らから後輩へという意味では執拗なまでのいびりが蔓延りました。
私はそんな先輩たちのターゲットになり、練習の後は高頻度で呼び出され、数人に囲まれました。「どういうつもりなわけ?!」といった具合にいびられるわけですね。
今となってはどうして何も言えなかったのだろうと思いますし、どこかの何かの作品の中の話を思い出しているみたいに現実味が湧きませんが、本当にあったことであるのです。そのうえ私がそんな彼女らに何も言えなかったのも本当のことなのです。
単純な恐怖のせいもあるし、他の同級生に接している先輩は普通に優しかったので、そういう時の先輩たちが嫌いではなかったからかもしれません。それにしてもあまりに愚鈍でした。自分が情けない。
それに担任にも何故か大変嫌われました。よく怒られていたように思います。何かのリーダーになると言ったら、わざわざ個室に呼び出されてカーテンまで閉め、そんなの無理だから諦めなさいと言われたこともありました。
自分の何がそんなにいけなかったのか見当もつきませんでした。
そのような様々な事象も重なり、私は中学二年生になる4月、ストレス性の顔面神経麻痺を煩い入院してしまいました。
完治はしましたが、今でも再発の危険があるので時々怖くなります。
しかしそのとき私は、「どうしてストレス性の病気なんかになるのだろう。」と思っていたのです。
先輩も怖いし先生も怖いけれど、私はとりあえず固定レギュラーにはならなくてはいけないし、それまではがんばり続けなくてはならないのにどうしてこんな入院なんてしなくてはいけないのだろう、とそればかりでした。
まだできるのに、体を動かしてはいけないなんて酷いじゃないか、と。
高校に入って振り返った時に初めてその異常さを思い知ったのです。実際人間はおそらく、しばしば自分の限界やその領域を大きく通り越しいてしまうことがあるのだと思います。自分では気づけないんです。
私はあの時、もしかしたら退部した二人のように退部してしまった方が良かったのかもしれない。そうすればもっと自由に、誰にも侵されることなく自分を極めて確立できたかもしれません。
そうした自分で再び誰かと交流すれば良好な関係性が築けたかもしれないのです。社会的なコミュニケーションだけではなく、もっと、心と心の親密なコミュニケーションが。
そんな後悔も失敗も悲しい出来事もありましたが、どれも良い経験です。ここでお話しすることができた時点でもうそれはプラスに転じているのです。
もう終わってしまったことですからね。良い意味でも、もう戻ることはないのです。「過去の産物だ」と切り捨てても何かに還元しても良いわけです。
そう考えると生きている「今」という一瞬が一番権力を持っていますよね。そこまで積んできたどんな過去よりも上位にあるし、そんな過去に価値をつける作業も今の自分が行うのだから。
これからもそんな今を探していくとします。
それでは今回はこんなところで。ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
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