ピアノについて語る

プロフィール

 先日、私自身の幼少期についてこのブログに書いてみました。すると何故かピアノのことも書いておきたくなりました。

 単刀直入に言うとします。私はピアノがとても下手です。

ほとんど週に一回、幼稚園の頃から十一年ほど通い続けましたが、素敵な演奏はできませんでした。どうしてでしょう。

「美しい音」「美しい弾き方」自分中に何となくそれは定義としてあるのです。しかしそれが体現されない。多分才能がなかったのです。この分野に関して努力するという才能も含めて。

まず手先が器用ではない。基本的に物事の雑破な様子も感受できる性格である。もうこの二点が揃ってしまった時点でおそらくピアノは諦めるべきなのでしょう。

さらに私はステージの上で何かを「披露する」ということが著しく苦手でした。壇上で何かを話すことは得意なのです。しかし、披露するということになると途端にあがってしまうのです。

しかしそれでもやめることはありませんでした。その要因としては次のことが挙げられるでしょう。

続けることが何よりも素晴らしいことであると信じていた。

・弾けなくても少しは楽しかったから。

・先生が素敵な方だったから。

一つ目の理由はとても大きいですね。しかし、この一つ目は賛否両論であると私は思います。私の脳内で賛否両論の意見が飛び出しているということです。

もちろん続けるべきこともたくさんあります。例えばウォーキングやストレッチの類い、ブログや単語練習など、日記、素振りなど。

そういうものはえてして、目的という概念によって支えられています。ダイエットや健康維持、受験への合格や試合での勝利、自己啓発などのことです。

ではその「続けるべき行い」を支える目的という支柱が崩壊してしまうか、入れ替わってしまったときあるいは壊れてしまいそうな時、それでもしがみつく必要があるかと考えると、それはNOです。

時間が無駄になってしまいますからね。

常にその支柱となっている「目的」が健在なのかどうか確かめなくてはならないのです。

結構大変な作業ですよね……。

特に自我が未熟だと、見えてこないことが多いのだと思います。誰かの評価や数値でしか何かを図ることができないからです。

 しかしこれは一種の合理に基づいた考え方なのであって、特段正しいとも限りません。

それは、肝心の私がピアノを続けたことがよくなかったのかよかったのか今でもわからないからです。

ピアノは少なくとも私が私を振り返ることや、物事の本質やあるべきあり方を考える上で役立ちました。

そして何より結局私はピアノをまた弾きたいと思っているのですから。

昔は少しばかり焦っていたのかもしれません。ピアニストになりたいとか、サン○ルクさんでピアノを弾くバイトがしたいだとか、音大に行きたいだとか言っていましたので、それは目的の柱が適切でなかったのでしょうね。

とはいえ、「一番に慣れないものなど価値がない」と思う気持ちはわかりますが……(笑)

しかし今ならピアノに、「芸術としての音」「安らぎ」みたいなものを見出すことができるのかもしれません。

今までの腐りかかった柱を、今のモチベーションの柱に変えてしまえば、また「続けるべきもの」の価値がつくわけです。

色々なパターンがあっていいのです。どれも素敵なことですよね。

 今回は私の人生におけるピアノについて軽く語ってみました。

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました!!

それではまた♪( ´▽`)

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