まず、前提として今この記事を書く時点ではまだ原作を読んでいません。入手し次第、読もうと思います。
原作を読まずになぜ映画を見ようと思ったのかというと、私が高校生の時、余った授業時間でこの映画を断片的に見せてくださった先生がいたということがその要因として挙げられます。
その時の記憶は途切れ途切れで、しかもあまりよく理解していなかったように思います。受験勉強に追われている時期でもあったので精神的に追い詰められていたのかもしれません。
そして今。大学に合格し、それからこのブログを立ち上げました。そしてこのブログを運営するにあたって始めたTwitterのフォロワーさんのつぶやきに近頃、この「私を離さないで」が話題として上がっていたのを発見しました。
それを見た私は、あの作品だ、と思い出し再度見ることにしたというわけです。
まず思ったことは先ほども述べたように、高校生の頃は十分に理解できていなかったということです。
人々の仕草、反応、言葉に隠された気持ち、そのようなものにはっきりと気づくことができなかったのです。
大学受験やそもそも高校という枠組みは私を封じ込めていたというわけです。今ならものすごくわかります。風景の撮り方、表情、ことば、そういうあらゆるものがあらゆるパターンでの悲しみにつながっている。
それに話す言葉と字幕の対応も素敵で、私はたまらなく興奮しました。そこは、私があの頃全く気づきもしなかったポイントでした。つまらない英文をつまらない日本語に脳内変換して問題を解く、そういう英語という科目の在り方が大嫌いだったので、きっとそもそも英語に期待していなかったし視野が狭かった。
でも一度こうして好きなものに囲まれて穏やかに過ごすとものの見方も変わってくるのです。
精神的に余裕のある今の私には、「please wait here.」が「待っていて。」と訳されていることすら感動的に思えました。
この文章をもし英語の授業で訳すとしたら、「ここで待っていてください。」というように「here」などという言葉は日本語に置き換えなければ、バツがつきますよね。
ああ、英語自体も、そしてそれをうまく訳すという作業も本当に素敵なことだったんだなと、そう思いました。
そういうものとも触れるため、この作品も近々でもいつかでも原文で読んでみたいと心から思いました。
そしてそれに素敵な訳をつけてみたい。と今までなかった感情も湧いていきました。
しかし、映画という映像になったものもやはり趣があります。私は基本的にふざけた映画でなければ映画は好きですからね。
風景の撮り方、表情、そして沈黙の撮り方、その一つ一つで心の変化を表現しているわけですから、まさに映画というのは洗練された現実ですよね。
今回は久々に、そのような洗練された現実を見たような気がします。
もちろん映画はフィクションですが、そういうことではなく、どんな境遇であっても人間は人間の体をもってしてできる表現しかできません。言葉を話す、黙る、セックスをする、手を握るなどのことです。
そのような表現の全ては紛れもない「現実」なのです。それを美しく、瀟洒に描く映画というものはやはり洗練された現実であると私は思うわけです。
たとえば「猶予」を求めて二人がマダムを訪ねた時、二人はほとんど言葉を交わしませんでしたが、その沈黙の中に高揚感が伺えました。
また、その後「猶予」はないのだということを知った帰り道、途中で車を降りるまで話をしている様子はありませんでしたが、事実への理解を超えて伝わる底知れぬ悲しみが漂う沈黙が写っていました。
特に最後のトミーの提供の前の眼差しはどこか悲しみの他に、愛情を感じました。そして愛情を知り、その美しさを知ったまま死ねることに喜びを感じている、そういう眼差しにも見えたのです。
私は非常に感心し、そして感動しました。やはり高尚な芸術には定期的に触れるべきなのだということを改めて思い知りました。
自分が浄化されて、そして洗われていくような気がする。そこに悲しみがあれば尚良い。悲しみを飲み込むことで自分や大切な人のことを考えることができる上に、それを美しいと思うことは確実にその主体の情緒を磨くことにつながると思うからです。
私は悲しみ至上主義的なところがあるのでこの作品の「猶予」がないという設定には非常に胸を打たれるものがありました。多分私が作者でもそうすると思いますからね。
このようなものを見経験は素敵な文章を書くことに非常に適している気がします。また、自分を腐敗させないための防腐剤としての芸術でもあります。
とにかくこれからももっとこういうものに触れていきたいと切に思いました。
では今回はこの辺りで。
今回もお付き合いただきありがとうございました!
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