はじめに
これまでで、この本の全体像としての感想解釈、そして第一部についての考察を記事にしてきました。その記事については下に貼りますので、興味のある方はぜひ。
今回はその「第二部」についての指摘解釈、考察、感想を綴っていこうと思います。第二部は「詩の学校」ということで、断片的に、「わたし」の勤める詩の学校での出来事が描かれます。
では早速本文に入りたいと思います。あくまで一個人の意見でありますので、その辺りはご理解いただけると嬉しく思います。
「さようなら、ギャングたち」第二部をめぐって。
「解説」にて加藤氏は一番面白くなかったのは「第二部」だということを書いていますが、別にそんなことはないと、私は思います。
この章ではただ流れも気にせず、彼の思考が極まり行き着いた最終地点において多くのことが語られている。
この章において彼が何を言いたかったのか、それははっきり言ってわからないけれど、わかるべきでもないのだと私の中では思っています。
彼は何が言いたかったでもないのかもしれないのです。意味がない、ということの具現化なのかもしれない。考え抜いた先にその結論を見出したのかもしれない。そうだとしたら、高橋源一郎氏と(当たり前であるが)別人格である私たちには感覚の共有しかできないのかもしれません。
それゆえ私がここでいえることといえば、およそ表現に関することくらいであると思われます。
私がこの極まった思考の終着点にて散らばりに散らばったものを集めて綴じた第二部という章を読み、読了後にも自分の中に残っていた部分について詳しく考えようと思います。
私がそのように思った場所は以下の四つです。それぞれ見出しをつけて言及していこうと思います。
・Ⅰ「吸血鬼なんかこわくない」において語られる遊園地の「大観覧車」の自殺について
・上と同じ章の「わたし」と「S・B」が六階にてキスをするシーン
・「わけのわからないもの」
・「木星人」
「大観覧車」の自殺に関して。
まず、私は例えば六階においては「死」について考えるのだということを仮に思いついたとして、そこで「大観覧車」の自殺のことを書くことはまずないのではないかと思います。
人の死であったり、猫の死であったり、割れたマグカップのことくらいは書けるかもしれません。しかし、「大観覧車」のことは思いつかないと思います。それはあまりにも硬質なイメージを持っているし、あまりに大きいため、その死が物質的に大きすぎるスケールを持ってしまうと考えられるからです。
そんなものを「人間」で構成された自分の小さな作品の中で扱うことにはどうしても躊躇いが出ると思われるわけです。
しかし彼は、その頭の中に出来上がった「黒いリボンをつけた大観覧車」の死がもたらすイメージを表現することを妥協していない。なんでも(妙な言い方かもしれないが)ぶっ込んでしまえ、という意気込みと意志と鋭さがうかがえます。
『「くそくらえ」「大観覧車」はそう捨てぜりふを残すと、コンクリートの土台だけになった自分自身に最後のとどめを刺した。それは人間には考えつかないようなやり方でだった。』
という一文がありますが、この一文の前に出てきた文の中で、このコンクリートの土台が「大観覧車」の存在の証であり、エゴそのものであるということがいわれています。
それにとどめを刺す……。これは「さようなら、ギャングたち」という名前の意味を明かすための1ピースであり予言の一つでもあるのかなと思ったり思わなかったり……。
そして何より驚かされるのは、「それは人間には考えつかないようなやり方でだった」という実に整っていない文章であります。
私だったら「それはとても人間には考えつかないようなやり方で行われた」などというつまらないけれどおかしくもない文章を書くと思うのです。しかし彼は「でだった」という書き言葉としてはいささか不自然な書き方を用いてその感情の震えを描いているように思えるのです。
前の「第一部」の記事でも扱った「うんち」と家計簿に書いた時の気持ちがまさに高橋源一郎自身に起こったものの具現化とも捉えられるのではないかと見えるわけです。
「わたし」と「S・B」が六階にてキスをするシーンに関して。
この部分は、ただ高橋源一郎氏の文学的センスを感じてただ敬服するばかりであったシーンです。
そういったシーンは他にもいくつもあるのですが(第一部の記事において扱ったのもそういったシーンである)、「第二部」のなかでいうならここが一番かもしれません。
「S・B」の目や鼻、口、鎖骨や恥毛や性器のことに関して述べられた後に、こんな文章が書かれています。
『S・Bの魂については、何も知らない。自分のだってわからない。そんなものはないかも知れない。あるとしたって、何の役に立つのか全く見当がつかない。どうせキスするなら、魂とより唇との方がずっといいとわたしは思う。 わたしはS・Bとキスをした。』
彼のロマンは、とても繊細だと私は思います。
「魂とより唇との方がずっといいとわたしは思う」なんて柔らかく、しかしどこか恋愛の熱みたいなものから少し離れた雰囲気を持つ表現を使って、そこから「わたしはS・Bとキスをした」と書くことで、突然「キスをする」という行為に関する思考から「キスをする」という実際の距離感そして熱を感じさせるフレーズをくっつける。
これによってそのシーンの持つ温度の様なものがぐっと上がるのだと思われるのです。
そしてわたしはその熱の上がりようによって胸の奥に何かを感じます。それをこの場で的確に表現できているかは分かりませんが、一応書き記してみました。
しかし彼はおそらく、なにかこうしたロジックに基づいて言葉を書いたのではなく、おそらく感覚まさにセンスで言葉を並べていったのだと思います。
「わけのわからないもの」に関して。
これは多少、かろうじて意味のある気がする部分でありました。
この「わけのわからないもの」のシーンでは、「わけのわからないもの」というシンボルを使ってインパクトを大きくし、ただ一つの「言いたいこと」をなるべく簡潔に書いたものなのではないかと私は思いました。
この部分は、「わたし」は結局のところ「わけのわからないもの」が何なのかわからないが、「わけのわからないもの」に「椅子と結びつくための存在であった」という、成り行きのもとに導き出された存在理由を与えてやるというシーンです。
こうすることによって「わけのわからないもの」は納得して帰っていく。
これはおそらく人間存在全てに対する筆者なりのアイロニーの具現化であるように思えるのです。無理にでも「意義」や「役割」さえ与えられれば意気揚々と生きて行けるよく意味のわからない周りの人間たち。
さらにいえば彼に対して圧力をかけてきた社会に染まった人間たち。そのような人たちに対する皮肉であると思うのです。
ただ、その重大なフラストレーションをこんなに少ない量の文章をもって表しているのはどうしてでしょうか。
おそらくそれは、彼自身がこのフラストレーションを何かの一部として描かれることは許容できても、それが大きく描かれることは美しくないと心のどこかで感じたからでしょう。
だから「わけのわからないもの」の実態を複雑にし、「わけのわからないもの」を使って非常に慎重に描かなくてはならなかった。
そんな風に思えるのです。
「木星人」に関して。
あるいはこれも感覚的な話であるといえるのかもしれない。
木星人と書かれた表と「私は寂しいあなたの夜のお友だち。電話を頂だい」と書かれた裏の名刺を持って「平均的な男は名刺を持つものだと聞いた」と言って現れた木星人に対して放った「わたし」のセリフ。
『たしかに表は平均的な男のもつ名刺であるが裏の様式は平均的ならざる女が平均的な男に対して使用するものであって混用は好ましくない、と言った』
これには何かセンスを感じます。また要件を話した後に「受取証」を出す木星人の描写もなかなか非凡なものに思えました。
またその後の「時間」と「死」それから「セックス」や「美」の観念の話。これは実際、「時間」については考えても全然わかりませんでした。
同時に直線的時間、円環的時間、螺旋的時間、終末的時間、がそれぞれ存在しているということなのか、あるいはそれが全体の中で起こったり起こらなかったりするのか。そこが言及されていないので紐解きようがないのです。
しかし「死」の観念なら少しわかる様な気がします。
おそらく直線的死は、すっとその瞬間死ぬ形の死。そして蛇行的死は病気や自殺までの過程などで徐々に死んでいく形。
そしてキャッチボールは誰かのことを思って死ぬことではないかと思うのです。完全に私的な解釈ですが、それならここでこの話をする意味が通ります。
宇宙的に見ても少ない「キャッチボール的死」は優しさの象徴です。おそらくは、その今の人間に残された優しさを表現したかったのではないかと見えるわけです。
それにしてもこの「木星人」のくだりには度肝を抜かれました。
まとめ
今回もものすごく長くなってしまい、申し訳ありませんでした。
しかしこのように、自分の感覚として素晴らしいと(あくまで)「感じた」ものを言語化していくのは困難なことであるゆえ、拙い言葉になってしまいますが、同時に非常に豊かな作業でもあります。
とにかくここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
次の記事がラスト、「第三部」についてということになります!!
お疲れ様でした……!
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