「風の歌を聴け」における「汝らは地の塩なり」「塩もし効力失わば、何をもてか之に塩すべき」の意味を考察する。

村上春樹

「風の歌を聴け」は今までに読んだ本の中で私の最も好きなものでありますが、知人にそれを読んでみたいと言われ、貸してみたところ一つ新たな疑問点が出てきたのです。

その知人はあまり本に馴染みがない方ということであったのですが、「汝らは地の塩なり」のところがわからないのだけれどどういうことだろうかと指摘され、私も全体の雰囲気が好きなだけでそこまで細かく読めていなかったのだなと反省した次第です。(笑)

そのような経緯がありまして、今回は急遽この部分に関して考察してみようと思います。

あくまで私個人の解釈ですのでその点はご理解いただけると大変嬉しく思います。

「汝らは地の塩なり」「塩もし効力失わば、何をもてか之に塩すべき」という鼠のセリフについて。

 活論から言いますと、この部分は聖書の言葉であり、具体的にはマタイによる福音書第五章に記載されている内容であるということです。

そしてこれを解釈するにあたっては前後の内容に触れ、彼の立場を明確にしておく必要があるので、その部分から述べていこうと思います。

それは、「僕」が女の子のことで悩んでいるであろう「鼠」とじっくり話をするためにプールに誘い、実際にそこに行った場面でありました。

そしてそこで「鼠」は小説を書こうと思うということを「僕」に打ち明けます。

その中で「僕」に、「何か書いてみたのかい?」と言われ、「鼠」は「一行も書けやしない」と答えます。

そして「僕」が「そう?」と言った後に、この「汝らは地の塩なり」「塩もし効力失わば、何をもてか之に塩すべき」というセリフを「鼠」が吐くわけです。

「鼠」はこの場で、「描くたびに自分自身が啓発されていくようなものじゃないと意味がない」ということと、「蝉や蛙や蜘蛛や、そして夏草や風のために何かがかけたらどんなに素敵だろうってね」ということを言っています。他の部分では、「鼠」の小説では一人も人が死なないし一人もセックスシーンがないということも言われています。

つまりこのことから「鼠」の小説はどのようなものであると言えるのか。私は、「理想主義を極めた至極純粋な、しかし現実を無視しすぎるがゆえとても脆いもの」であるのではないかと思います。

金がその純粋さゆえの脆さを克服するために他の鉱物と混ぜて使われることや、宗教の発展の中で純粋なものが生き残れずシンクレティズムの波に呑まれてしまった事実のように、純粋で輝くものは脆いのです。

彼の思想も例に漏れずとても脆い。ナイーブ極まりないのです。

だからこそ「一行も書けない」のかもしれませんが……。

ひとまずここまでで「鼠」の立場と前後のシーンのことについて述べていきました。

ここからはそれを踏まえた解釈に移ります。

「汝らは地の塩なり」「塩もし効力失わば、何をもてか之に塩すべき」

この文章の元々の意味を説明しておきます。これは、「塩」は少量で食物の腐敗を防ぐという重要な役割を担うものであるという前提のもとにある言葉だそう。

このことから、「キリストの教えを聞くものは少数であっても「地」つまり世の中の腐敗を防ぐ重要な役割を持つものなのだ」ということが意味されるらしい。

「塩もし効力失わば、何をもてか之に塩すべき」

というのは、「塩が塩らしさをなくし、塩としての役割を果たさなくなってしまってはその意義はなくなってしまうのだ」という意味でもあるそうなのです。

つまり、一行も書けなかったとしてもその理想主義的な言葉をもし「鼠」が紡げなければ、「鼠」は「鼠」としての価値をなくしてしまうことになる。それゆえ、書けるまで粘ってみるしかないのだという脆くも強い意気込みなのだろうと思えるのです。

「汝」はおそらく「鼠」の書きたいはずのものであり同時に「鼠」の思う理想でありこうあるべきであるという指針でもある。

すなわち理想主義的純粋さを極めた諸刃の刃のような「鼠」は本当の意味での「強い人間」になろうとしていたのです。(しかしこの考え方自体が私から見れば絶対不可能な理想論なのでその辺りがどうしようもなく切なくて魅力的)

そう考えるとこの後のシーン、「嘘だと言ってくれないか?」がまた別の意味を持ってくるというわけです。

「汝らは地の塩なり」「塩もし効力失わば、何をもてか之に塩すべき」を踏まえたときの「嘘だと言ってくれないか」について。

 この「嘘だと言ってくれないか」には二つの見方が重複してできるのではないかというふうに思います。

まず一つは以前「風の歌を聴け」解釈の記事を出したときに示した見方で、もう一つはこの「汝らは地の塩なり」「塩もし効力失わば、何をもてか之に塩すべき」を踏まえて言える解釈ということになります。

(一応以下に「風の歌を聴け」シリーズを二つ載せておきます。)

まず一つ目。

「鼠」は、自分が「金持ちである」ということに無意識下で甘えている部分があるわけです。(実際初めの方、車で植木などに突っ込んで車が駄目になった時、「気にするなよ。車は買い戻せるが、ツキは金じゃ買えない。」と言っている。)

その甘えを、どこか自分が夢物語のなかにいて理想主義の小さな枠に留まろうとしていることの言い訳にしているところがある。

「自分が金持ちだから、多少弱いところがあったり、現実に目を向けられないところがあるのは仕方がないのだ」と深層心理で思っているところがあるのかもしれないということです。

そういう意味でも自分に自己嫌悪を抱かせるような「金持ち」という状態を嫌っているのかもしれません。

次に二つ目。

「鼠」は理想を極め、現実などとは離れたところにある素晴らしい小説を書くことで、本当の意味で純粋な「強い人間」になろうとしていたのではないかということです。

だからこそ、「汝らは地の塩なり」「塩もし効力失わば、何をもてか之に塩すべき」と自分の意志を表明したわけです。

それゆえ、「僕」の言葉にて「本当に強い人間なんかいない」と言われた時、計り知れないショックを受けたのだと思われるわけです。(「汝らは地の塩なり」と言われた時「?」と「僕」が言っているあたり、おそらくこの時「僕」は「鼠」のいうことがいまいちわからなかった可能性もある。)

「僕」が本当の理解をしていないことにも、そして、自分が「強い人間になりたい」と思っていることすら夢物語的な発想である可能性が出てきてしまったことにも。

この「嘘だと言ってくれないか」は、このような二つの側面からの言葉であり、彼のなかで非常に重いひとことであると思われるのです。

私はそういう意味で、今回さらにこのシーンが好きになりました。とてつもなく切なく、「鼠」の美しさが出ています。

まとめ

今回は「風の歌を聴け」の「汝らは地の塩なり」「塩もし効力失わば、何をもてか之に塩すべき」

に注目して記事を書いてみました。

以前解釈した「嘘だと言ってくれないか」という言葉に関してもさらに解釈が深まったので非常に有意義な取り組みができました。

それでは今回はこんなところで。ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

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