高橋源一郎「さようなら、ギャングたち」について私的に考察する。

本について

はじめに

 「さようなら、ギャングたち」という作品は、彼が学生時代過激派として時間を過ごし、そして息も絶え絶えに生きた挙句に出来上がったものであるのだということが、彼の人生遍歴と文章を見ればわかります。

私はひとまずここで、この本の読了記録としての感想や解釈を綴っていくつもりですが、それは彼のおおよその人生遍歴を踏まえ、細かい知識を抜きにしたただその文章から感じたものを書いていくというコンセプトをもとにしているので幾分拙いそして極めて私的な代物になってしまうかもしれませんが、その辺りはご理解いただきたく思います。

そしてとりわけこの記事では、「第一部」「第二部」「第三部」の細かい感想ではなく、あくまで全体を通した書評(というと大掛かりで差し出がましいかもしれませんが)を書かせていただくことにします。

高橋源一郎氏が「さようなら、ギャングたち」を執筆した経緯。そしてこの作品は一体彼にとって何なのか。「解説」を踏まえつつ考察する。

 彼は京都大学を受験し、失敗。そして横浜国大に入学します。彼はやがて「過激派」として活動し、逮捕もされています。

その中で失語症も患いますが、その後結婚しやむをえず土方の仕事をしていた時期もあったそうです。

そしてそんな中、失語症をやっとのことで克服し、第24回群像新人賞に応募しますが落選。しかしその後編集者の勧めで「さようなら、ギャングたち」を執筆し第4回群像新人長編小説賞に応募。優秀賞を取りました。

そんな経緯で生み出された「さようなら、ギャングたち」ですが、この作品は彼にとっての何なのでしょうか。そのことが作品の最後にある「解説」にて言及されています

「まず、第一部では書き手のこれまでの人生が辿られ、第二部では言葉の問題、第三部は書き手の世界との関係、つまり政治と文学の問題が扱われている」

これは「解説」を執筆した加藤典洋氏の見解であるので作者本人の意図はわかりませんが、少なくともここにはこう書かれていたわけです。

私も彼の人生遍歴を見ればそのように考えられるなと思います。実際、第一部では「わたし」の土方としての経験談のようなものが記されているし、男女関係やこどものことなど比較的作者の人生の一片が散りばめられた形になっている。

第二部ではいうまでもなく失語症を経た言葉への意識が書かれているという側面も持ち合わせているのだろうと思います。しかし私は失語症を患ったことがないのでそういう観点から考えると全く理解できないことになってしまいます。ですから、考える余地を残しておくためにも「側面も持ち合わせている」という書き方をしました。

第三部では政治と文学の問題が扱われている、と解説にはありましたが、私としてはそれが第三部の中核であるとはあまり思えませんでした。

私は決して加藤氏の「解説」を否定しているわけではなく、「第一部では書き手のこれまでの人生が辿られ、第二部では言葉の問題、第三部は書き手の世界との関係、つまり政治と文学の問題が扱われている」というように無理にカテゴライズをし、あたかも本文がそういった思考や事実の暗喩でしかないような考え方をしたくない、すべきではないのではないかという個人的な好みの話をしているのです。

 それに実際、こうした「解説」という類のものでは、このような言い方をせざるを得ないところもあるのでしょう。しかしここは私の個人ブログですから、基本的に思ったことが書けます。非常に豊かな場ですね。

とりあえず、話を戻します(笑)

では、私がこの作品に対してどのように思うかというと、身の丈に合わない願望や認識の中にある自分を厭い、言葉を厭い、全てを一度憎みきってしまい、その過程やその結果に生じた悲しみと絶望感を彼の鋭い言葉によって書き表した、そんなものだと思うのです。

第一部、第二部、第三部、その全てにおいて上記のことを書いていると思えるのです。彼の作り上げた世界、人物が、上記の彼の思想の中で渦巻いている。

高橋源一郎氏は「一部と二部は躰で書き、第三部だけは頭で書いた」というようなことをおっしゃっているようですが、もし本当にそうであるのなら、一部の「キャラウェイの死」の信じ難く自然でリアルでそこ知れず深い悲しみと第二部の例えば「木星人」の部分などは彼自身の感覚として確実に存在し且つ深い深い自己の中での迷走した証としても存在しているといえると思うのです。

加藤氏は「解説」において「第二部は面白く書こうとしていることがわかるから面白くない」と述べていますが、私は上記のように考えているので、「本当に作者は第二部を面白く書いたつもりがあるのだろうか」といささか疑問に思います。

第三部は確かに少々「頭」で書いたということが見えているといえば見えていますが、逆にそうでなくてはいけなかったのでしょう。

「躰」で書いたものの回収作業をして、ある程度何かを論じなくてはならないからです。先程私が述べた「身の丈に合わない願望や認識の中にある自分を厭い、言葉を厭い、全てを一度憎みきってしまい、その過程やその結果に生じた悲しみと絶望感を彼の鋭い言葉によって書き表した」ということを最後まで鋭い言葉をもってかろうじて書き残さなくてはならないからです。

だからこそ「でぶのギャング」の言葉や、「ヘンリー四世」の死がいかにも美しく描かれていますし、ストーリーの運びも明確であるのです。少しもやが晴れていきます。

本当に全体を通して思うことは一度目に読んだ時には何が何だかわからなかったのに、再読するとこんなにもはっきりと彼の言葉が入ってきて、気持ちがシンプルにストレートにエモーショナルに伝わるのだということに対する驚きです。

そして全てがしっかりとした「小説」になっていて、その中に感情の振れ幅とその美しさ、そして力のない抗いと絶望がぎっしりと詰まっているように見えてきたのです。

高橋源一郎氏の言葉について。

高橋源一郎氏の言葉について、「解説」でもいくらか述べられていました。

彼の文章は「親殺し」的なものであると。

つまり前の文書に対してそれをポキリと折ってしまうような言葉を軽快に重ねていくところにあるというわけです。

確かにそうかもしれません。そして書き方が一元的でないのです。第三者的なものを「わたし」の言葉によって区切っていくような書き方。

私は加藤氏による「解説」を読むまでそのことに気づいていませんでしたが、なんとなく文章の中に感じた「輝き」の類のロジックはここにあったのでしょう。

これは彼のセンスなのか、それとも彼の経験に基づく棘の部分なのか。

私は後者による輝きであると初め思っていたのですが、その真髄はわかりません。時間をかけて彼の本をたくさん読めばわかってくるのかもしれませんが。

しかしとにかく、私も彼の言葉が好きです。表現も秀逸で、その点も好きです。なんだか、例えば村上春樹氏の言葉のようなある種の「ロマン」であるとか「洒落た雰囲気」とかは持ち合わせていないのですが、もっと力のこもった鋭い輝きが感じられるのです。

例えば私が非常に面食らった表現は第一部のこの部分です。

「『私は詩の学校で詩を教えている』と口に出して言うと、とても奇妙な感じがする。携帯用のビデで膣内を入念に洗浄しているキャサリン・ロスの傍で、冷えたビールの載ったお盆をもって直立不動の姿勢を保っている帝国ホテルのボーイのような気持ちになってしまう。」

少なくとも私には、こんなにがたがたとした長く挑戦的で尖に尖った表現はできない。きっと勇気がないし、思いつくかも微妙なところだと思うのです。

まとめ

 今回、「さようなら、ギャングたち」の全体的な感想や解釈について書いてみました。

時に「解説」での見解も交えつつ、そこに対して自分の意見を書いていくのは非常に楽しい作業でありました。

私はまでこの作品を計二回しか読んだことがありませんが、きっとこれから先何度も読むことになるであろうと思いました。おそらく読む年代、その時の状態によってもどういう作品であるように見えてくるか変わってくると思うからです。

そして、今回作品全体についてを語り終えたので、続いて第一部、第二部、第三部それぞれの細かい感想解釈を述べる記事を作成していこうと考えております。

ひとまず、長くなって申し訳ございませんでした。ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

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