こんにちは!今回は読了記事です。身近な人におすすめされて、今回扱うヘッセの『車輪の下』を読むに至ったのですが、正直これはすごい……!
読んでいる最中、友達に「どんな話なの?」と聞かれて要約を説明したのですが、しゃべってみてわかりました。かなりこの作品は構成がしっかりと練られていて、しっかりとこの作品を書く最中に「問題にしたい事象」というのがしっかりしています。その分、ここで問題とされていることの普遍性やそこに伴う切実さのような部分にも焦点が合わさるような構造になっています。
冒頭は主人公ハンス・ギーベンラートがどういった環境で育ち、またその環境はどのようなバックボーンの上に成り立っているかということなどの細かい設定が結構な長尺で語られているので読むのに骨が折れなくもないですが、ここを頑張ればかなり面白いです。
そこを理解した上で次の場面に順繰りに進んでいくと、舞台設定などの「説明パート」ではなく「思想・精神パート」のような部分に突入します。
この作品はヘッセ自身の自叙伝(母親が作中主人公ハンスにはいないという点のみ事実とは異なるが)とも言われる作品なだけあってなのか、心的描写が非常に細かく鮮明です。
誰もが抱いたことのある多方面の気持ちをじっくりと生々しくしかし時に切なく描いていて、とりわけ嫉妬とやりきれなさや少し歪んだ羨望のような気持ちの出方が美しいと感じました。
この作品を考察をするには私はまだまだ背景知識や他の作品情報に乏しいので、今回はひとまず感想ベースでこの本の話をしていきたいと思います。
以後ネタバレ注意!!!
ネタバレあらすじ
主人公ハンス・ギーベンラート(以後ハンスと呼ぶ)は地元の町で神童として扱われ、校長先生や牧師をはじめとした周いの大人たちから大いに期待をかけられていた。
当時、そのような子供は別の大きな街にある神学校を受験し、牧師か教師になるというのがセオリーだった。
ハンスもそのようにして大きなプレッシャーを背負い、重要な子供時代を全て勉強に捧げながら二番の成績で神学校の受験に通り、無事に試験を終える。
その後ハンスはしばらくの間友達付き合いもろくにせずに勉強に打ち込み、実際に良い成績を取り続けていたが、あるときひょんなことがきっかけでハイルナーという同じ部屋の詩人と親睦を深めることになる。
そのハイルナーという人物は勉強にはさして時間っや労力を使わなかったが、ハンスの知らない色々な素晴らしい物事を知っていた。また彼はハンスと違って洒落なども飛ばし、感情表現も豊かで、ハンスにしてみればハイルナーは自由で輝いて見えた。
ハンスはハイルナーとよく時間をともにするようになってから次第に今まで自分が強く持っていた「学校で一番の優秀な生徒でいる」という意義に価値を見出せなくなっていく。
ハンスは勉強をするよりもハイルナーと時間を共にすることに魅了されていく。それは彼が勉強をすることに費やした少年時代を取り返すかのような感覚でもあった。
その後ハイルナーの素行は段々と悪化していき、彼はついに退学を強いられる。
するとハンスも居場所を失い精神のバランスに支障をきたす。
そして学校を後にし地元に戻り、紆余曲折の末に機械工になることを決意するが、その新たな仲間との飲み会の後、泥酔状態で帰宅している最中に川に飛び込みハンスはその短い生涯に幕を下ろす。
主人公ハンスについて。ハンスはなんだか私みたい……!?
主人公は、今まで「優秀で在る」というまやかし(と、私は思う)に取り憑かれ過ごしてきたがハイルナーと出会ったことで「情緒」「自由」そんな人間の根源的な欲望や美しさに気付き、その果てに死んでしまうという人物設定です。
私はこの主人公の立場で作中散見される「嫉妬」や「羨望」のようなものに強く共感し、この情けなさと他の美しいものへの憧憬の念とに苦しめられそれと同時に生かされているという状態に非常に同情しました。(婉曲的に自分に同情してしまったかもしれない……『ノルウェイの森』の永沢先輩、教えを守れずごめんなさい……私は先輩のおっしゃるように下劣な人間かもしれません……笑)
しかし彼が私と大きく異なるのはやはりあの素敵なラストでしょう。
彼はその美しさへの羨望のために心中した、と私は思うからです。
これは完全に私の個人的な見解ですが、彼はハイルナーに出会って自分が失ってきたものを自覚し取り戻そうとしたのだと思うのです。
けれどハイルナーはどこまでも美しいだけではなく人間として清らかすぎました。ハンスは彼と時間を共にすることで彼のようになれると思っていたけれど、その実それは不可能だったのだと思います。
ハンスは、目の前の現実の目標や周囲とのバランスをとることににとらわれていた期間の間に本当に取り返しのつかないほど色々なものをすでに手放してしまっており、それを彼は徐々に自覚していくのだと思うのです。
そして神学校を出るときには、そのことをしっかりと自覚しつつも目の前の現実の目標まで失った、何も持たないドロップアウトの自分がいたというわけなのだと思うのです。
そして最後、何かハイルナーと過ごす中で煌めいて見えたものを「生活」の中に見出しますが、彼は実際最後、泥酔していたとはいえある程度意図的に死をえらんだのではないかと私は思いました。
というのも、死の真相は作中では明かされてはいませんが、その時の風景の描写などは非常に豊かで綺麗なのです。この作品の中で、確かに自然を描くシーンはどれも素敵でしたが、やはりこのラストシーンは格が違いました。
ハンスは、ハイルナーとの日々の中で発見した「人間」というものの美、しかしそれをハンスは手にしたのではなく結局のところ彼の羨望に過ぎなかったのだという絶望感、そしてすぐそこにあったはずの人々の逞しさと美しさ、そうしたものを抱えて、そのどれもと心中したのだと思うのです。
私はそんなハンスを尊敬してしまう……。持っていかれた、という感じですね、
詩人ハイルナーについて
やはり私も主人公ハンスと同じように、この詩人ハイルナーを羨望の眼差しで見てしまいました。
彼はやはりどこまでも美に貪欲で、かつどこまでも純粋すぎるのです。
Twitter(X)にも書きましたが、彼は人が普通成長の過程で捨ててきてしまうものを全て持ったまま今を生きている、そんな人なのです。
彼がみんなの前で恥を恐れず泣いたシーンにはぐっとくるものがありました。
彼はそれに限らず、泣きたい時に泣き、行きたい時に行きたい場所に行き、然るべき時に言いたいことを言う人物で、彼なりにさまざまなとらわれはあるものの、彼は子供である分「自分」を大事にしていました。
そしてそんな「大事な自分」が価値があるものをいつも大切にしていました。だからこそハンスを、ある意味ハンス以上に愛していたのでした。
私はハイルナーみたいな人はとても好きです。また好きであると同時に、やはり嫉妬があります。
ハンスもハンスで現代風にいえば私と同じように自己肯定感が低いタイプでしょうから、彼に嫉妬も抱いたと思いますが、そこはあまり描かれていません。
それ以上にハイルナーへの憧憬と愛情の方が強かったのだと思います。またそのような感情とともに抱かれるその嫉妬のような部分はあまりに表現するのが難しいのかもしれないとも思いました。
そして若干ですがハイルナーには村上春樹作品でいうところの「鼠」を彷彿とさせる爽やかさと毒々しさがありました。
私はやっぱりあの手の人物が好きなんだなあ……。
まとめ
今回はヘルマン・ヘッセ『車輪の下』の感想を語りました。
いつもの文章を追うかたちや場面や全体から意味を読み取るなどといったゆったりとした読書体験ではなく、この本に関してはかなり腰を入れて節々から滲み出る生々しい感情を自分に入れ込み、一緒に沈み込んでいくようなそういう読書体験ができました。
おかげでかなり疲労感はありましたが、読んだ後少し世界が違うような清々しさもありました。
読了済みだという方がいらっしゃればぜひTwitterなどで感想語り合いたいです。
それでは今回も長々とお付き合いいただきありがとうございました!!!
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