古代インドの唯識と私と石

雑記

 こんにちは。しばらくブログを書けていなかった間にいろんなことを考えていました。

私は大学で宗教学を学んでおりまして、それは特にインドや日本あるいはチベットや中国などアジアのものに限られています。東洋哲学や仏教学といった方がピンとくるかもしれません。

その中で昨日はこんなことが取り扱われていました。

インドの古代哲学の中に、唯識というものがあります。簡単にいうならこれは「唯だ、認識のみ」という意味です。この世の中のあらゆるものは実存せず、その本質は究極的には「空」(無いも同じ)で、それを我々が頭の中で認識することであたかもあるように感じているということです。

つまり、この世界は我々の認識の上にあるだけのものだという考え方です。

私は(言語化はできていませんでしたが)ずいぶん前からこのことを思っていたように思います。

結局は科学や一般論を持ってきたところで、皆(これだけは等しく)自分というフィルターを通してしか世界を見ることはできない。周りの人から見て私の目の前にマグカップが置いてあったとしても、私が全ての記憶を無くしてしまって目の前のマグカップをマグカップだと思えなくなったら、私というフィルターを通して眺めるこの世界では絶対にそれはマグカップになり得ないわけです。

つまり、「マグカップ」なんて実存はないのです。

今まで私は「だって私が死んだらこの世界は私にとってないも同然よね?」とたくさん思ってきたように思いますが、そういうことを古代インド人も考えていたようです。

そしてもう一つ、古代インド哲学の考え方の一つとして紹介されたのが「生住異滅」(しょうじゅういめつ)という考え方です。

全ての瞬間というのは、刹那(最も短い時間の単位。一瞬)の間生まれては刹那にとどまり、そして次の瞬間には変化して、なくなってしまう、ということです。

この考え方は「刹那滅」ともいいますが、つまりは時間の流れ、そして世界の流れというのはひとときも止まらないのだということです。

この考え方はやがて「諸行無常」という概念を生み、それが日本に渡るとエモーショナルな意味に捉えられるようになりました。(もっともインド人は理論体系として刹那滅を論じたのであってエモーショナルな意味はもとから込められていたわけではないようですが)

さて、この話を聞いて私はやはり日本人であるようで、エモーショナルな気分になりました。もっといえば、少し不安になりました。自分の包括する地球、銀河、宇宙、それを思ってどことなく不安に駆られるような、そういう宙に浮いてしまうような不安感です。

この世の全てはきっと音楽みたいなものなんだ。

自分よりも進んでいくスピードの早いものと遅いものがあるからわかりにくいだけで、結局はそういうことなんだ、と。

音楽は常に流れていてとどまりません。とめてしまって掴んで眺めようとしても、とめた瞬間に無音になります。音は次々に過去に過去に流れてその過去すら見えなくなって聞こえなくなって消えてしまいます。音は、今という時間軸にそれを刻んだら後はスッと消えてしまうのです。

とても虚しく、我々なんかよりずっと見えやすく生じて滅しているように感じませんか。いくら録音してもいつまでも私の劣化のスピードに合わせてはくれないのです。

私はそれを思うと、今度は「やっぱり石はいいな」と思いました。

石。それは我々より劣化の遅いものです。それゆえ、(石も石で常にその瞬間瞬間に変化していっているのだろうけれど)とどまっているように見えます。

そういうものを見ているとすごく安心します。本当は何事も音楽のようにとめようとしても、とまらず、掴もうとしても掴めないけれど、石を見ているとそれは私が手にできる美しさだと思える。

それにそんな美しく、変化が緩やかな石ならば、記憶を無くした後に眺めても「綺麗だ」と思えるのではないかと思えるのです。

石は、絶望的な世界の中にあってその虚しさを癒してくれるものであるように思うのです。

昔、とても幼いころに石を手にした時の病的な安心感が今になって言語化できたような感じです。

考えたことをとにかく書いてみました。

周りにはこんな話をできる人はいないのです。

共感してくれた人がいたらぜひコメントでもしてください。待っています^ ^

ここまでお付き合いいただきありがとうございました!

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